Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

「対価」を求め続けてもただ労働は苦しい

ようやく残すところあと2日で仕事納めだ。年末までに、と思っていた山の1つも越えられただろうか。あとはのんびり、残す山の1つでも崩せれば御の字だ。でも、とおれは思う。


果たしてこの山登り(山崩し?)は、果てなど無いんじゃないか? 頂上も無い。下山口ももちろん無い。途中で登山道を逸れてしまえば、そこに広がるのは果てしない樹海で、やっぱり果てが無い。と、そりゃそうだろう。


おれは、いくばくかの仕事をこなし、それに見合った対価をもらって生きている。このことをよく考えると、だ。「労働の対価しか払いませんよ」という仕事をしながら、それを糧に生きているわけだ。仮に、コンビニの店員に転職すれば、コンビニの仕事をした分だけ、その相場に見合った対価しかもらえない。引越しのバイトだろうが、経営コンサルの仕事だろうが、弁護士だろうが、「労働力を買ってもらう」という売買契約上、あらゆる仕事は「その労働の対価」しかもらえないはずだ。


けれど、おれが癒されたと感じたり、解放感に包まれたり、報われたのだと満足感に浸ったり、あるいは金を消費することで一時的に興奮したり、そういう「幸福さ」というモノは、端っから「労働して、その対価をもらう」ことの外側にしか無い。もう初っ端からぶっちぎりで外側に、だ。


考えてみるがいい。「労働をして」、「対価をもらう」んだよ。ということはつまり、「貴方の満足感とか幸福感を、我々が支払う対価は一切保障しませんよ?」と暗に示しているわけだ。だって、「労働の対価」なんだもの。


んで、これはよくよく考えれば当たり前の話ではあるんだけど、一日8時間なり9時間なり働き、さらに出社・帰宅時の交通に往復1時間なりをかけ、この分をまさにお金に換算してもらうわけだ。「労働の対価」は、つまり「仕事せずに家で寝ていたい」を含まないし、次の休みに出かける遊び代も含まず、「労働の対価」から貴方が身銭を切って下さいね、ということだ。これが根本的な労働とやらの仕組みだ。どこに行っても、どんな仕事をしたって、この仕組みからは逃れられない。


だからだ。だから、仕事をしている人はみんな、常に、「労働」以外の余裕が無いわけだ。「労働してるから余裕が無い」のではなくて、より精確には「労働以外の余裕が無い」だ。これに尽きる。休日? 休日は、「労働で疲れた身体を休める日」であって、それ以外のことへ時間を割けば、「体力や精神力の回復」を少しだけ諦めなければいけなくなる。


つまり、労働をするということは、常に「(労働の対価としての)お金や時間や体力や精神力を、何かと交換しなければ成り立たない」ことになる。これがきっと、経済学でいうところの「トレードオフ」の本当のところではないのか。



これはねぇ…。どこ行っても、多分キツい。キツさが無くなることは絶対に無い。キツいならキツいなりに「労働の対価」をもらえるし、キツくなくても「それに見合った労働の対価」をもらうことになる。そして、どちらにせよ「労働の対価の外側は、貴方が労働の対価を切り詰めて、勝手にどうにかなさいよ?」ってことになる。




こりゃね。常にキツいよね。うん。理解した。
不労所得を次善的なゴールに設定するほか無いんだね。



#nowplaying money money - ヒゲドライバー

written by iHatenaSync