Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

心とか

昨日会った友人がやつれてた。

 

「お前、頬こけてねえ?」

 

「周りの人にも言われた。そんなか。飯の量が落ちたかもしれん。仕事が忙しくてだな…」

 

 

 

今日会った友人もやつれてた。

 

「お前も頬こけてんな。なんかヤバイぞ。」

 

「"も"ってなんだよ。俺元から頬こけてんじゃん」

 

「いや、いつものレベルじゃねえよ。なんかあったか?」

 

 

 

って、両人の話を別々に聞けば、いわゆる「思い煩い」が原因みたいだ。

両方とも職場の人間関係や、仕事の話で、おれは6年前が懐かしくなった。

 

6年前、たぶん友人2人の現在よりも、おれはもっと思い患っていて、まあ言い換えれば「鬱」だったわけだけど、心の問題ってのは肉体に顕著に現れる。当時はこの友人たちに「死相出てんぞ」とか言われた。なんだなんだ、今はおれが一番ノーテンキだなぁって、変な感慨を覚えちまう。

 

 

なんで人はこんなにも思い患っちまうのか。

 

 

 

「心ってのは優秀なデータベース兼シミュレーター」って持論がある。

 

これ前にどっかに展開したかもしれないけど、まず「何でも放り込めるデータベース」ってのがある。普通のコンピュータ上で走らせるデータベースって、まあおれも小規模な業務用データベース組んでるから分かるけど、「項目」設定しないと、そもそもデータ放り込めない。名前なら「名前」、日付なら「日付」。それぞれ設定されていないデータは、そもそも「データ」として認識出来ない。放り込むフォーム作っても、テーブルで定義されてなければエラーで弾かれる。

 

心は違う。なんでも放り込める。

それは今目の前でタイプしている言葉の1つ1つでも構わないし、それを繋ぎ合わせた「文章」でも、その「ニュアンス」でも構わない。昨日の晩御飯を友人と食べた風景を視覚情報としても蓄積できるし、その時交わされた会話の一言一句でもいい。友人の声の音色でも、その時自分が感じた感情でも、それはとにかく「生きている、この全て」がデータベースにぶっ込めるってことだ。

 

 

んで、次に「自分の意図した演算結果を弾き出すシミュレーター」って機能がある。

上に挙げた、生の経験のありとあらゆる情報をデータベースとして、それを元に、なんでもかんでも出力出来る。ロジックっていくつもあるじゃん。それは例えば「状況を法律的に照らし合わせると~」ってロジックでも構わないし、「明日は予定が詰まってるから時間が無駄に出来ないぞ。今日やれることは多めに効率よくこなしておこう。だからこの目の前にある問題に対してはこう対処する」ってロジックでもいい。日々の日用品・食料品の買い物も、自分の嗜好や経済状況を加味することも出来るし、それを敢えて無視して、(たとえば「給料日だから少し贅沢する」、「普段食べない/やらないことに手を出してみる」ってロジックの下に)全然脈絡無い行動を取ることも出来る。

 

普通のコンピュータでプログラム組む場合、演算メソッドの予めスクリプトぶっこんどくか、あるいはその場で演算させるか、つまり「指定」する必要があるけれど、心は違う。「知って、思えば」いいだけだ。だから、凄まじい超・高性能シミュレーターってなわけだ。

 

 

神様はなぜにこんな超高々度な機能をおれたちに与えてくれたんだろう。

(※注:一神教とか、あれは「ストーリー」なので、現実としてはまるで信じてませんが、おれは「神様は遍在的にいる」派の国の人です)

無駄、とまでは言わないけれど、たまに凄く不思議になる。

本能だけでも良かったのではないか。

(※注:「本能」が、果たして「心」とは別口の機能なのかはよく分からない。生物学とか生態学とか知らんけど、学問全般は基本的に嘘くさい。なぜって「人間が考え出した法則」だから。人間が生命を区分とか整理とか、本当に出来るもんなのかねえ。なんか、もっとすげえだろ生命って)

 

 

んで、「思い患い」って、心に負荷かけすぎなんだよね。

超絶高性能のデータベース&シミュレーターもさ、調子悪くなる原因はあるんだよ。

 

「思い詰める」と、目の前の光景から選択集中的に情報をかき集め、過去の光景や一言一句に拘り、特定のロジックに囚われ、それ以外が疎かになる。バランスを失うんだよ。

 

恋愛でも仕事でもいいんだけど、それを「思い詰める」と、今まで取れていたバランスが崩れる。「今日の飯何食べようかな~」とか、「毎日やってる、何かのための習慣」とか、「いつもは当たり前に考えられていたロジックの数々」とか、そういった様々な日常の根幹を保っていた、「データベース&シミュレーター」がとても偏って機能し始める。別に、だからといって、それが「機能として壊れている」わけではないけれど、今まで通りのバランスは崩れてしまう。

 

しかも、「心」って機能は止めることが凄まじく難しいので、バランスが崩れていようがなんだろうが、目の前に映る光、耳に入ってくる音、身体の感覚全て、習慣で動かしている身体が直面している現在の経験全て。これらも、自動的にできる限り処理しようとする。だもんだからさ。

 

速攻でエネルギー消耗していくんだと思うわけ。

度が過ぎれば病んでいくんだと思うわけ。

まさに、「思い」「患い」ってわけだ。

 

 

 

「死相出てんぞ」って言われた頃が懐かしいと思える程度に、ノーテンキに今を楽しめてんのはいいことだなぁ。思い詰めようが、悩もうが、楽しもうが、どのみち誰もが死ぬんだしさ。おれも、友人も、おれを産んでくれた親も、仕事で知り合った仲間も、昔からの学友も、おれの知らないどこかの誰かも、誰も彼も。

 

産まれた限りは、生きて、みーんな死ぬんだしさ。

 

だったらさ。

 

せっかくの神様からのプレゼントだしさ。

この超絶高性能なギフトを、空転ばっかさせてんのは、まあやっぱり良くないよなぁ。