Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

失敗をしないこと

人は、だいたいが線で輪郭を象ったような"モノ"として概念を理解している。だけど、本当は概念の理解と流通ってのは「白抜き」みたいな仕組みで成立しているんじゃないかと思っている。


大分前に、妹や弟へ算数や数学を時々教えたりしていた。母親に頼まれて休日時間が空くと、たまに実家へ行き、宿題やら塾のテキストやらをちらほら見てあげた。


算数や数学ってのは、概念を理解しないと何も手に付かない。たとえば、一次関数だとか、要は変化する数字たちにどういう関係性が成り立つのか、式とグラフで考える。そうすると、変化する傾向(傾き)だとか、あるいはゼロを当てはめた時の初期値(切片)だとか、もしくはそれの求め方とか、それらは全て記述された問題文を解くヒントとして存在する。


これを教える時に、「数字の関係性ってのを式で表したのがy=ax+bなんだよ」って端的に伝えても、全く相手には響かない。?マークが顔に浮かぶのがもう目に見える。


そこで、母が暇だったりすると横槍をいれてくるので、それを躱しつつ、1番簡単な例題を解かせてみる。掛け算も割り算も、特に問題は無い。分数と割合について教えると、ここにつまづきがあると判明する。割合がよく分かってないなら、そも関数の傾きについて話が通りにくいのも当然だ。分数だってy/xを理解するのに必要不可欠だ。


教えていて思ったのが、「分かっていない人に、分からせるには、なぜそれが"間違い"なのか」を理解させるしか「方法が無い」ということ。これ多分、学校教育なんかの基本なのかもしれないけど、だから「理解力ある人」が教えるの上手いとは限らない。教えるの上手い人は、「失敗を悟らせる」スキルがめちゃくちゃ高い、ということ。だから、それに付随して、「反省させる」スキルを伴うこともある。「状況説明をうまいこと引き出す」スキルもあるかもしれない。


教えたい(教えなければならない)概念がある。それを提示して、問題を解かすなり、説明させるなり、つまり「試す」。これで間違った時に、再度いきなり「正解」を示しても何も進展しない。そもそも「正解」への理屈が理解出来ていないために間違ってしまうから。なぜ間違った、あるいはどう間違って理解しているのかを説明してあげる必要がある。概念の使い方や操作を間違っているかもしれないし、そもそもの前提を誤解しているかもしれない。


「概念の理解」ってやつは、だから「それそのものを直接提示出来ない」ことにこそ本質がある。つまり、「線で象った輪郭」ではなく、「黒ベタで周囲を塗り潰した、白抜きの絵」だ。


「概念の理解」なんてめんどくさい言い方だけど、新しい仕事覚えるのも、料理すんのも、生活習慣正すのも、複雑な身体操作覚えるのも、全部これに当てはまる。「何か、今まで出来なかったことや、未経験だったことを、出来るようになること」。


炒めた野菜が黒コゲになってしまったら、油が足りないか、火力が過ぎるか、もしくは具材を転がして熱を散らしていないか、そんくらいしか「失敗の要素」、「間違ってしまう理屈」って無い。


ランニングで膝痛くなってしまうのだって、体重が重過ぎるか、靴が良くないか、柔軟&準備運動足りてない、もしくは身体の可動域が狭過ぎるか、すごく可能性低いけど栄養もしくは医学的な理由か。そんくらいしか「失敗の要素」って無い。



「教える ー 学ぶ」関係性って、理解する事柄にもよるけど、慣れると1人でも成立する。なぜなら「失敗する理由」さえ突き止めればいい。もちろん、「理由を改善するかどうか」は最終的には個人の意志にかかってくるけど。


「教える ー 学ぶ」関係性が、「失敗の理屈を理解させる ー 失敗の回避の方法を身に付ける」というだけのことならば、本来、そこに「成功」なんてモノはどこにも含まれないような気がする。


「成功」ってなんなんだろう。おれの人生には、未だ「失敗したこと」か、「失敗の回避を覚えたこと」しか、無いんだけど。何の功も成してないや。


ちなみに、おれは「失敗の理由突き止めても放ったらかし」なことが多くて、自分にいつもウンザリしている。



written by iHatenaSync