Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

タイミングと個人差のこと

本当はこれが書きたかったのに、前回はまたあらぬ方向で話が閉じてしまった。自分の能力の無さにしにたくなる。


タイミング、ということを書いたわけだけども、おれはどんな現象であれ、「個人差」という、もうどうしようもない隔たりが絶対的に存在すると思っている。たとえば、相槌を打つタイミングが、話相手にとって心地よいかどうか。前回、この瞬間を捉えるスキルがあるのではと書いたが、スキル、というか、時間感覚なんじゃないか。テンポが悪い人と、絶妙な人と、これを「巧い/拙い」で断じるのはとても簡単だけど、なんだか雑で乱暴な分け方だなと思う。ただの個人個人の感覚の違いなら、それはもう「巧い/拙い」って基準に収まり切らないんじゃないのか。


たとえば、子どもの頃に「苦い食べ物」が食べられず、ピーマンなどを残してしまう、とか。大人になって、「ピーマンの美味さ」がわかるようになり、パクパク食べてる人は、「味覚センスが良くなった」のだろうか。それは違うよね。成長・発達に伴い、味覚が変化しただけだよね。本来そこに、「良いとか悪いとか、優劣とか」断じる基準なんて無いはずだ。

であれば、瞬間を掴む感覚ってのも、やはり「今のその人その人にとって、あくまで当たり前の感覚」なんじゃないのか。時間感覚ではないけど、おれは耳がひどく悪くて、聞こえない音もある。友達が「セミが喧しい」なんて言い出しても、「静かないい夜じゃねえか」なんて擦れ違いも頻繁に起こる。これが不都合なこともたまにあるけど、それはその都合に出くわさない限りは表面化することがない。タイミングってやつは、基本的にこれと同じなんじゃないのか。


人間、歳を取ると丸くなるなんていう。
現に10年単位で時間が経って、知人の性格っつーか発言や行動傾向が変わったのを何度も目の当たりにしている。知識や経験から、「自分の意志で、自分を変えた」人も、そりゃいくらでもいるんだろう。けれど、おれには「その人の感覚が変化したからなんじゃねえの?」って疑問が常に頭の中にある。

時間の経過とともに、感覚が変化するって現象は、日常生活レベルを超えた部分でも恐らくたくさんあって、たとえば「病気」や「障害」っていう領域だ。人と話すタイミング、運動特性、リズム感、時間感覚、興味の集中と分散のバランス、好悪や感情の高低の落差など、平均域を逸脱すると「病的」と判断されることがある。子どもでも大人でも、どの時期で周囲に指摘されるかにもよるけど、治療なんかなくても時間の経過で「逸脱度」が緩和したりすることがある。


んで、これがなんで「タイミング」に関係するかって、「個人差のある突出した特性」は、それって、「その人にとって、そのタイミング」だったんじゃねえの?と思うからだ。

ほんとに発達心理学とか、医学のことはさっぱり判らないし、本当に「治療すべき病」ってことはいくらでもあるんだろうけど、やっぱり「それって個人差じゃ…」と思う瞬間が多々あるわけだ。おれの中の「個人差」って概念が広すぎる、もしくは不明瞭すぎるのかもしれない。

知れないのだけどもさ。