Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

劣等感について

やべえ、なんも思い付かねえ。スランプなう。

だが書く。


えっと、なんか書こうかなとは思ったんだ。
確か…劣等感についてだ。そうだそうだ。2,3日前まで風邪ひいててその辺考える気力削がれてた。


自分の劣等感ってのがすごく嫌いなんだけど、これを払拭する術が未だよく判らない。でも、これの影響範囲ってのがけっこう凄まじくて、たとえば先日柴又で職場の仲間にお土産に買ってきた草饅頭。これを片手にぶら下げて職場に向かったのだけど、会社に着いて、みんなに配ることを想像すると胸が苦しくなる。こんなの、偶々柴又に行って、帝釈天参拝してきたので、と普通に配ればいいだけじゃん?どこに苦しさを感じる要素があるというのか、普通の人からすれば意味不明過ぎるだろう。頭おかしいんじゃないかと思われても仕方ないんだけど、事実、これだけで家出る前に会社行くのが億劫になった。週休明けの憂鬱なんかとは別に上乗せされたりするから重症だ。で、こういうのがいつもの日常茶飯事だから、わりと本気で生きにくい。

それで案の定、会社に着くと、それはそれで普通に笑顔でコミュニケーションしつつ土産配ってる自分がいた。なぜ、この平凡な結果を自分にフィードバック出来ないのか。予め、当たり前のこととして感情に組み込めないのか。何がそれを阻んでやまないのか。たぶん、根っこに巣食ってんのは「劣等感」なんだと思う。普段からふつーに話してる人で、ほぼ確実にそんなこと思う人いないはずなんだけど、おれサイドからすると、(おれなんかがどっかに出掛けて土産を買ってくなんて、なんかおこがましいんじゃないか。もしや、それを責められやしないだろうか)って感情がどっかに巣食ってる。だから、これはある種病気なんだと思う。

なんでこんなこと考えたのかって、先日学生時代のメンバーと飲み会があった。別々のコミュニティの、別々のメンツで、それぞれ飲んだ。その、それぞれの場で、かなり別人のような振る舞いをしてしまい、その落差があまりに酷かったから、考えざるを得なかった。片や、話をほとんどしない自分、片や、いつもとあまり変わらず話す自分。


Aという友人と、Bという友人と、会ってる時のおれは振る舞いが違うし、地元の友人と、職場のメンバーと、高校・大学の旧友と、話す時の振る舞いはそれぞれ違っていて、それは「場の空気」とか、「TPO」とか、いろんな説明の言葉はあるんだけど、問題は「落差が大き過ぎる」ことだ。人と人の性格や話し方のスタンス、求められるキャラによって、パワーバランスが変わるけど、これに左右されまくってブレまくる自分は、「人と話すのが苦手」という劣等感に、長いこと縛られてるんだと思う。なんともアホらしくて嫌になるのだけど、そこそこの頻度で表面化する、この「大きな落差」がどうにも耐え難い。いや、耐えてんだけどもさ。耐えてるから、じゃあお前は偉いのかって、偉くもなんともねえわけだし、むしろ耐えられないと割り切って、「うまく振る舞えないコミュニティ」を予め感知し、そこから徹底的に逃避し続けるって選択肢もあるわけで。それが出来ない自分は、単に愚図なんだと思う。


じゃあ克服するしかない。自分に克って、自分を服み込むしか、手立てが無い…のか?この手の克服法として、ありきたりだが、たぶん次の2つが有効だと思う。1つは、数をこなし慣れること。もう1つは、根本原因を体感的に完全に掌握すること。どちらも、結果「それは大したことじゃない」と心から思えれば、今の不具合は多かれ少なかれ解消される…と思う。

んで、じゃあどちらを実践すべきか。このケースの場合、前者は「慣れる場」を作るのがけっこう大変で、上に書いた「自分が黙り込んでしまう集団」の中に入る機会を多く持つよう心がけるとする。そうすると、「そういう状況」に慣れるより早く、「そのメンバーそのもの」に慣れてしまい、結果、別の場所で遭遇した類似例に対応出来ない。簡単に言えば、応用の利く経験値になりにくい。つまりもうだめだ。


ってまあ、だからやっぱり「根治」したいなあとは思うのだけど。いかんせん、真隣にいる人から話しかけられて、「何て言われたか聞き取れない」ことが頻発するポンコツ耳が、自分を臆病にさせてるのか。もういいかげん誤魔化すのも愛想笑いで茶を濁すのも終わりにしたい。そうすると、ある種の図太さというか、ふてぶてしさを身に付けたいのだけど、そうすると、やっぱり根底にある病巣をあるていど一掃するしかないんじゃないか。そんなこと考えてる人間なんて、傍から見りゃキモいだけなんだがな。


とりあえず、なんか書いてるやっぱりと気が紛れるので、これでいいや。走って筋トレしたらお尻の左側だけ筋肉痛になったのでもう寝よう。