Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

恐怖の源泉

 怖い。夜、1人でホラーゲームをプレイするのは怖い。

 いや、ホラーゲームではなくエロゲーなんだけど、とにかく怖い。チャプターが進む毎に、夢物語→不条理・サスペンス→不条理・ホラーと話がくるくる変わっていく。そこのホラーシーンがとてつもなくホラー。ホラーシーンの前のチャプターで話の流れの断片は掴めているはずなのに、それを裏切って語り手が変わり、見える視界が変わり、物語の解釈が変わり、強烈な違和感と恐怖を与えてくるこのシナリオは紛れも無く秀逸と言わざるを得ない。つかエロはどうしたんだ!カムヒア!エロ!

 

 元々、俺にとっての恐怖の原体験は読書だ。小学校に上がる前から活字の本を読むのが好きだった。親が読み聞かせてくれる絵本こそが幼い頃の何よりの娯楽だった。微かな記憶では2歳の時に読んでもらった昔話や童話の絵本が霞がかって残っている。小学校1年の時に、学童保育に通っていた俺は、そこにある本棚で気になった本は片端から読み漁った。もちろん低学年向けの易しい文体で書かれたそれは、けれど絵本ではないしっかりとした小説だった。

 「せかいのこわいはなし」というタイトルだったか。ポーの黒猫も入っていた。ポーなんて、今読んでもゾクゾクする話を簡易版とは言え感性豊かな幼少期に読んだらたまったもんじゃない。幽霊の話も幾つか入っていたこの本が、俺の恐怖の原体験だ。読んでるとすぐに本の中に入ってしまい、壁際に寄り掛かりながら座り、ひたすら読んだ。時折り片面に出てくる薄ぼんやりした挿絵は、幼いひたむきな集中力のおかげか脳内で鮮烈な映像に変換された。そのおかげで文字通り「恐怖を覚えて」しまった。

 子供の頃の俺は、薄暗く誰もいない場所では5分と耐えられず、端正な人形の無表情な瞳に吸い込まれそうな引力と忌避感を感じ、聞き慣れない音を聞くと無性に落ち着かなくなった。作用反作用の法則でも働くのか、にもかかわらず「怖いもの見たさ」が強烈に好奇心を刺激した。押せば押される。逃げれば近づく。避ければ気付く。そして必ず後悔する。だって「知っていた」のだから。怖いモノに近づいた後は数日は怯えながら忘れるのを待ち焦がれた。少しずつ、数日、数週間、数カ月、数年間…と徐々に耐性は付いていったものの、今でも「怖いモノ」に対する強烈な好奇心とそれに反比例する忌避感は消えない。

 

 作家の村上龍は著作のどこかで、「恐怖は想像力が生み出す」と書いていた。確か自身が編集した短篇集『魔法の水』の解説だったか。数人の作家がそれぞれ恐怖にまつわる短編を載せていた。よく分からないが、「何も無いところにまるで影絵のように恐怖は生まれる」んだろうか。あるいは「道筋や全体像が不鮮明なところに自身の嫌悪・忌避・恐怖の対象を投影してしまう」んだろうか。

 

 ま、いいや。なんにせよ、「素晴らしき日々」面白い。