Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

才能と、長所と短所と、あと欠点

それは貴方の才能だね、という人がいる。
 
その人が持った、類稀なる才能。
勉強に関することや、身体の感覚や能力、コミュニケーションにおけるバランス感覚や会話センス、特定の専門分野における異常なほどの情熱や発見・追究の嗅覚。
 
「才能ってやつは、あるところにはあるもんだ。実際ある」という意見がある。
 
おれには分からない。目に見えないモノだし、おれ自身にそういうモノが眠ってるかどうかも感じたことが無い。他人を観察しても、「才能」なのか、「努力で身に付けた」のか、さっぱり判別出来ない。反対に、特定の能力について、その人が自分よりも「優れている/劣っている」と感じ取ることは出来る。つーか簡単だ。あるいは自分が誰かよりも「優れている/劣っている」と感じ取ることも容易い。
 
 
それは貴方の長所であり短所でもあるよね、と人は言う。
 
その人固有の性格を、数直線のように示すか、もしくはプラスやマイナスに振れる天秤の針のように喩えるかのように、表現する。
 
曰く、「その自分で築き上げた考え方はしっかりしてるけど、もっと柔軟な姿勢も時には必要だよ」とか。
 
曰く、「勇気と蛮勇は紙一重だから、時と場合を選んで慎重になった方がいい」とか。
 
曰く、「なんでも話せる気安さは、時には秘密を守れない口軽さを印象付けてしまう」とか。
 
そういう、「長所と短所」があるらしい。人の性格は一長一短であると、そう考えることで人の性格を極めて理解し易くなるからなんだろうか。
 
 
それは貴方の欠点だ、と考える人がいる。
 
欠けた点だから、何かで補うしかないのだと。
「俺はバカだから」が口癖の男がいる。バカだから、他の何かで埋め合わせしないといけないのだと。
 
あるいは、「うっかりや、ドジを踏む」のがあまりに頻発するから、自分は慎重を期して、予め事態を想定する考え方を武器として身に付けた。そういうやつもいる。
 
もしくは、誰かの何か失敗するのを見て、それを何度も繰り返す様を見て、「あの人には、あの場面で必要な要素が欠けてるんだ」と。欠けているから、それはもうどうしようもないことなんだと、そう判断することがある。
 
何度も何度も同じことを繰り返す自分や他人を見た時に、それが「欠点」であると、そう考えるのは容易い。
 
 
 
おれは、「簡単で容易いこと」は、いつだって罠だと思ってる。
 
 
 
たとえば、「自分には才能が無いと感じる」って、これ不自然じゃないか?
 
「無いモノ」を、どうやって感じるというのだろう。あるいは、「無いモノ」と「それがある状態」を、どうやって比較感知するのだろう。
 
「才能がある状態」を見極めるのだとして、努力や、経験と知識・発想の結合とか、そういう「人の試行錯誤の積み重ね」と、どう違いを認識するのだろう。
 
 
たとえば、「良い面と悪い面、表裏一体の性格」を、人は何を以って測るんだろう。定規とかか?んなもん無いだろう。測る基準なんて、常識や良識と直観くらいしかない。
 
極端な話、殺人や強盗などの凶悪な犯罪をはたらいた罪人の、もしくは正反対の人類へ貢献するような偉業の、その原因を語る時に「性格や長所短所」って有効だろうか。少し過激さを落とすと、ごく日常的な失敗や成功について、「性格や長所短所」ってその分析に正しく役立つだろうか。
 
おれには「行い」と「結果」があるようにしか見えない。だって、どんなに「性格の悪い」人間であれ、善行積む自由はあるだろう。どんなに「せっかちで、短気な」人にも、辛抱強く変化を待つ自由はあるだろう。どんなに「時には甘やかしに繋がりかねない、寛大な」人だって、環境とタイミングによっては取り返しの利かない「罪」を犯す可能性はあるだろう。
 
 
たとえば、「勇気が無い」と欠点を嘆く人がいて、その人は「勇気の無さ」を別な面で補わなければいけないのだろうか。勇気を獲得する行動を取ることは、果たして無駄だろうか。
 
「俺はバカだから」という奴が、ある日黙々と知識と教養を求め出すことは滑稽なんだろうか。
 
自分に欠けているモノが、あの人は優れている。あの人の欠けているモノを自分は持ち合わせている。だから補い合おうと、これでイイのか?「適材適所」は、有効な作戦だけど、これだって長期的な変化への期待は、誰しもが抱くだろうし、だとすれば「欠点」って一体なんなんだろう。
 
 
 
才能と、長所と短所と、あと欠点。
よく考えると不思議な概念だよなあ。
 
簡単に人を、既成の言葉の中にカテゴライズ出来てしまう、それはきっと罠なんじゃないかな。誰が仕掛けたって、そりゃまあ言葉っつー便利なモンを発明した人類の仕掛けた罠だよ。