Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

「感情に流される」ということ

年明けの仕事始めとか、すげえ憂鬱かなーと思ってたんだけど、思った以上に憂鬱で朝からしにたい。事務所移転のため、移転後の荷ほどきがあり、かつ通勤ルートも少し変わるので、いつもより30分近く早い電車に乗らねばならないことも、憂鬱に拍車をかけている。加えて、半月前の怪我も、カサブタは取れたものの、赤味は取れず、未だ見苦しい。ゆえにマスク。これも気が重い。

気が重いついでに、年末年始に考えた、そこそこ重い考えを、またいつものようにめんどくさい感じに書いていこうと思う。世間のメジャー層って、ライト&ブライトリーなコンテンツ求めてんだと思うけどね。おれが考えてる方向って世間一般の需要には逆行してるよなぁ。


ここ最近、立て続けに、複数の人から職場にまつわる愚痴を聞かされた。

それで、昔から愚痴を聞く頻度がやたらと高くて、人から見て自分はそういう人柄なんだろうか、ってことぐらいしか考えていなかったのだけど。その人が、根底では何を抱えてその愚痴を吐いてるんだろう。そこを突き詰めて考える、いい機会になった。

今回は、友人AとB、およびおれの母から、それぞれ完全に別個に話を聞いていたのだけど、どうやら、友人Bと母の愚痴に比べて、友人Aの話は聞いていてイライラして仕方が無い。これは一体なんなのだろうか。


友人Aの話は、職場の人間関係の話。
友人Bの話は、職場の大変な状況と、人間関係の話。
母の話は、職場の人間関係の話。

何度かリピートしつつ、時を変え場所を変え、複数回に渡りそれぞれの愚痴をヒアリングした。なんだこのノリ。フィールドワークかよ。まあ、いいや。

Bと母の話を、これは妙に安心して聞けるなあ、笑えるなあ、大変だけど笑えるなあ、笑えるけど切実で、お互い頑張ろうね、などと考えていたら、「もう、今の職場も長いからさー」なんて言葉が耳に飛び込んできて、Bも母も、あとおれも、それぞれの勤続年数が6~7年目に入っていて、「各々の職場で、一定の居場所があり、少なからず責任を負った立場」だということに気付いた。

ちなみに、友人Aは勤続1年未満だ。

勤続年数?
そこに、何かあるのか?


少し、ワクワクしてくる。
「そういうことだったのか!」という、驚きを伴う発見や気付きが訪れる、予感めいた感覚だ。


友人Aの言葉を聞く。
「俺、こんな目にあうとは思わなかった。あんな酷い職場があるかよ。あいつらみんなクズだよ」


友人Bの言葉を聞く。
「今週はマジで心折れるかと思った。またミスが発覚して残業だぜ。終電終わってタクシー待ちの中で、これが毎週続いたら完全にアウトだな。唯一俺の心のオアシスのあの子とも、なんか目論見が外れて席隣になれなかったわ」


母の言葉を聞く。
「今の所長、ちょっとおかしくてね。あんたと同い年くらいの若い子が目を付けられて、もう毎日怒鳴られてて、可哀想だから、ついつい味方しちゃうのよ。忙しいのに、融通利かないから、みんなが疎ましく思うのも分かるんだけどね」


何が違う?
何が、おれの感情に訴えかけるんだ?
友人2人も、母も、付き合いはすごく長い。
付き合いが長いから、性格を知ってる。その人の行動原理を知ってる。

おれは友人Bの言葉の裏に、「職場で起こる様々な不具合は、自分が出来る精一杯の努力を懸けて、最小限のダメージに抑える」という覚悟があることを知ってる。

母の言葉の裏に、「世の中にはどうしようもない人がたくさんいて、けれどそういう人たちも、置かれた家庭環境に左右されて生きてきたから、仕方が無い」という、出鱈目な深さの人間観察や理解と、諦めがあるのを知っている。


だけど、友人Aの言葉の裏にあるのは、本人の感情だけだ。言葉通りの感情だし、感情通りの言葉だから、分かりやすい。けれど、それだけだ。周りの人間に対しての愚痴であれば、本当に「あいつらみんなクズだ」と考えてるのが、手に取るように分かってしまう。


だって、そうだろう?
本当にクズみたいな人間なんて、そう滅多にいるもんじゃない。ちょっとしたことでクズみたいな評価が下されるなら、おれもお前もそこら中のみんながみんな、全てクズだよ、そういうことになる。

だけど、友人Aは、「自分が苦しい思いをした、そこに関わる人たち」に否定の感情を向ける。そこには、「その状況に対して、自分には責任は無い」、「あいつらが、あんな人間でなければ、この状況は起きなかった」、そういう想いがある。でも、そうだろうか?


当人にも十二分に責任があるから、多数の人が敵に回るのではないのか?

当人がそれを自覚しないから、クズではない人たちが、まともに味方してくれないんじゃないの?

当人が自分を見つめ直さないから、同じ職場に長く留まれないのではないのか?


新しい職場を求めて、より良い待遇や人間関係を求めて、いつまでそんなことを言い続けるんだろう。とても非生産的な友人Aの言動に、愚痴を聞かされる度に苛立ちが湧く。

マザー・テレサの言葉で、うろ覚えだけど次のような至言がある。


「言葉の使い方に気を付けなさい。貴方の言葉の使い方が、貴方の行動を作ります。行動に気を付けなさい。貴方の行動が、貴方の習慣を作ります。習慣に気を付けなさい。貴方の習慣が、貴方の性格を作ります。貴方の性格が、貴方の運命を決めていくのです」

至言だと思う。
けれど、件の友人Aは、ちょくちょくこの名言を凄い凄いと褒め称えているのだけど、にもかかわらず、「あいつら、みんなクズだ」だの、「咎められてやんの。ざまぁねぇよ」だの、そんなことばかりグチグチ言ってる。「言葉の使い方に気を付けなさい」…はどうなったんだろう。こいつはダメだな…と思うのは、おれが狭量なんだろうか?

恨みに思おうが、怒りを感じようが、その時その時に色々と感じるのは仕方ないと思う。けれど、それを根に持って、汚い言葉で罵るのは自分の人生に決してプラスにならないんじゃねえのか。そしてそんな心の在り方を、「感情に流される」と言うんじゃないのだろうか。


そんなことを思った次第。
これに関連して、また別の面白い気付きも幾つかあったのだけど、それはまた別に書こうと思う。

おっさんの気持ちが分かった気がした

  • この前、実家で晩飯を馳走になった。 
    おかずが4つも5つもあるなんて最高だね、と感激しながら、母と話してご飯食べてると弟も家に来た。弟も高校生の癖に近くでひとり暮らししている。 

    下の弟と1つ違いの妹はとにかく昔から仲が悪くて、喧嘩が絶えないのを見かねて高校に上がった弟を近くの安アパートに1人暮らしさせたらしい。だから、4人兄妹のうち、おれ含めて3人が市内に散らばっている。昔から変な家庭だと思っていたけど、改めておかしな家族だと思う。 


    それで、まあ弟が来たわけなんだけど、高校入ってかなり身体がデカくなった。 
    おれなんぞ中学時代から2センチしか身長伸びてないというのに、もうおれより12~3センチは大きくなっちまったんじゃねえか。少し前は、まだ身長だけだったものの、最近は全体的にガッシリしてきた。 

    んで、飯食い終えたおれは、気紛れに弟に話しかけた。 

    「ちょっと腕相撲しようぜ」 

    「えー、やだよ」 

    「だいぶ強くなったんじゃねえか?まあ試しに試しに」 

    んで、床にタオルとか敷いて腕相撲する。 


    「うお!待って!無理!無理だから」 
    大した力出さずに、速攻で勝負が着いてしまう。弟、激よわ。 

    「なんだよ、本気出してないんじゃねえの?」 

    「お兄ちゃんずるいよ。ちょっとハンデくれよ」 

    「いいよ。じゃあ最初からお前の押す方に傾けとこう。んじゃもう1回」 

    「よし…あ、ちょっと!また!なんで!」 

    本当に弱い…。 
    2,3回ハンデを付けたりしながら繰り返したけど、どうしても勝ってしまう。 
    聞けば、クラス最弱だとかなんとか。 
    本当に腕力が弱いわけではないとは思うのだけど、なんだろう、最近の子供は腕相撲なんてやらないから、手首の返し方とか知らんのだろうか。力というより、スキルが無い感じである。 


    本音を言うと、負けたかったのだ。 
    気持よく負けて、「やっぱ、もう若者には勝てねえよ」なんて、おっさんめいた文句を吐きたかった。けれど、そう想像通りにはいかないか。 

    この気持ちや感覚ってなんだろうと考えてみて、空手の稽古仲間の40過ぎのおっさんに思い当たった。彼はめちゃくちゃ強くて、組手ではじゃんじゃか重くて速い突き蹴りを打ち込んでくるのだけど、それを褒める度に、「いやー、もう若くないから全然だよ」なんて笑っている。小学生のお子さん連れてきて、その子との稽古を楽しんでいる、そのおっさんの姿を思い浮かべて、「あー、これがおっさんの気持ちなのか」と気付いた。 

    若いヤツらに、全力出した上で、気持よく負けたいんだと思う。 
    親身になって一緒に稽古してくれたり、指導に回ってくれたり、でもその根底にはやっぱり「気持よく負けて、出来るなら後進の道を譲りたい」みたいな気持ちがあるんだと思う。 

    弟との腕相撲にそれを感じてしまったおれは、まあ紛れもなくおっさんなんだろうなー。 


    こういうのって、多分女性はまた全然違うんだろうな。 
    30代40代の女性が、10代後半~20代の女性に対して思う、「おばさんの気持ち」みたいなものも、やっぱりあるんだろうけど、男とはかなり違うんじゃないか。 

    女の方がめんどくさい印象あるけど、まあおれは女じゃないので一生分からんのだろうけど。

高いテンションを取り戻したい

中国にいる友人に、元気か?ってメール送った。
 
いや、まあ、チャイナどうよ、日本帰って来チャイナよYOU~!とかくだらねえこと言いたくなって思い付きで送ったのが9割で、残りの1割は中国っつー異界の地で送る日々への心配だ。心の10%は100%心配なので特に問題無いと思う。
 
 
昨日、友人とテンションの高い長電話をして、中々どうして楽しかった。喉が少し嗄れるくらいにはバカ笑いした。
 
 
んで、朝起きて、「チャイナよ~」のメール送って、昨日書いた日記読み返して、昨日友人と話したことを思い返して、それでおれは最近の自分のテンションの低さについて考えてみた。いつからだろうか?
 
 
 
20代前半にも別アカでmixiやってたんだけど、その頃のテキストはすげえハイテンションで書いてた。今は完全に当時のアカ消去しちまったので、昔のテキスト残ってねえけど、なんかもっと走ってた。
 
その頃は凄まじい密度のテキスト書く人がマイミクにいて、その人の日記には力強い意志としなやかな知性に溢れていて、おれはその文章を読む度に純粋に感心したり、あるいは醜く嫉妬した。おれもどうにか書いてやろうと、クソみたいな経験を何とか読めるモノにしようと色々と画策した。情熱を注ぎ込んだのだ。
 
おれは鬱になり、mixiをやめて、それでまた再開した時には、あの頃憧れた文章を書くマイミクの行方は分からなくなってた。アカを消さなければ、もしかしたら今もその人のテキストを読めていたかもしれないと思うにつけて、おれは自分の愚行を呪う。
 
とはいえ、それは過ぎたことなので止む無し。つうか、アパートに隣接する近所の家の話し声うるせえ。テレビの音か?頭おかしいボリュームで、眠れねえ。もう朝の空手の稽古まで起きてようかな。そう思ってなんか書いてるのだけど、テンションについて考えちまった。
 
20代前半のmixiの思い出だけに限らず、もっと遡れば、10代の頃はなんか無性にテンション高かった。やってることは今も大差無いけれど、もっと熱中してのめり込んでたような感覚があった。それこそ、読書なんて読み出すと最後まで止まらなかったし、ゲームも止め時が見えずによく親に怒られていた。あれはひとえに、テンションの高さがもたらす恩恵だったんだと思う。
 
生活がかかってる、っつーのもあるけれど、仕事があって、体力が落ちて、バカなこと考えたり、やってるのも中々どうして制御が必要になってきた。斜に構えて物事見てこき下ろすのも、だんだん許される年齢じゃなくなってくる。「心が身体の行動を縛る」なんて言うけれど、それは逆もまた然りで、むしろ「身体の年齢が、心を制限していく」ような気がしてならない。
 
 
金が欲しい、愛が足りない、身体も鍛えたい、娯楽を追究したい、って色々と欲求出てくるけれど、今1番欲しいものは、実はテンションの高さなのかもしれない。

年齢のこと

今日は空手の大会がありました。

おれは試合に出ないのもあって、係員の命を受け、連休の中日なのに朝6時起きで、長い長い坂上ったとこにあるスポーツセンターまでチャリで行きました。とてもしんどい。長い長い坂の上とか、泣きゲーの中だけとかにして欲しいです。



同じ道場からはおれと同年代の2人の男女が係員として行く予定だったところ、2人とも仕事ゆえ欠席で、結果、おれともう1人は高校2年の男子とで穴を埋めることになりました。

おれには高校1,2年の妹弟がおり、しかもちょうど弟の通う高校の1年先輩だったので、係員は担当のコートの仕事で忙しく、道場メンバーの試合の応援もままならないので、今日はこの「年齢差」を楽しむと決めました。


さて、体育館に着くと、同流派の別道場に通うお子さんの保護者の方と合流します。というか、往々にしてお母さん方の係員経験値が高く、仕事回しの速さ、子供達への声掛けや他の大人たちとのコミュニケーション連携がハンパないです。今日の保護者の中にも先陣切って仕切れる美人お母さんいたので、おれは心が安らぎました。もちろん美人なことにではなく、仕切り上手についてです。


さて、17歳の高校生君ですが……これがとても頼りない。この子の中学生の妹さんも試合に出るのですが、会場に着いた時から頻繁に妹ので出番と、自分のタイムスケジュールについて気にしてそわそわしていました。なんか危うい。

や、妹の心配してあげる兄貴っつーポジション自体はいいんですよ。ただ、それがだいぶ「自分の感情寄り」な印象が強かったのがちょっと。「親切」の境界線があやふやな感じみたいなもんでしょうか。

あと、終始落ち着きが無いので、年齢よりだいぶ幼く見えて仕方がなかったです。


コート係員の仕事は3つで、型・組手のトーナメント制の試合について、記録・時計係をする人、赤・青に分けるためにそれぞれの色の帯を選手に巻いてあげる係、それと選手呼び出しの係です。おれは呼び出しやりました。

で、このトーナメント制の忙しさの肝っつーのは、最初赤だった選手が、勝ったら次は青になったりそのまま赤のコーナー残ったりってことです。赤青の帯も全人数分あるわけではないので、試合終わったらすぐに外して、次はどっちだよって指示してあげる。これがスムーズに回す肝なわけです。

呼び出しも呼び出しで、1試合1〜2分のペースで毎度毎度「赤、〜選手!青、〜選手!」って声張らないといけません。棄権の人がいれば勝手が変わるし、同じ、もしくは似た名字の人がいれば混乱防止のために下の名前も読めないと呼び出しに支障出ます。名前の読みが分からん選手探して確認したり、だから帯の手伝いしてる暇は無いのです。

トーナメント表の中で上・先が赤で、下・後が青だよ。赤で出てても、次が青になったら反対のコーナーに移動しないといけないから、先に試合出る選手から、どんどん帯付けといて、終わったら帯外して次のコーナー教えてあげてね。そう高校生君には指示しておいたわけです。

ところがトーナメントのシード選手のこと忘れてて赤と青を最初から間違えるわ、途中で混乱して進行がストップするわで、序盤からてんやわんやでした。結局ベテランのお母さんのやってた記録の係と交代してもらってました。挙句、「妹の出番がうんちゃらかんちゃら」言う始末。リアル妹に執着しちゃダメだよ!


まあ、善意で手伝ってくれてるのは分かる。
それは偉いんだよ。けっこうイイ奴ってことも普段の稽古で知ってるんだよ。

もとい、おれもやらなくて済むなら家でゴロゴロしてたい。つか無償奉仕の仕事だよこれ。昼飯だけは弁当出るけど。…それは確かにそうなんだよ。

でもさ、他の人たちだってみんな、まあこのイベントちゃんと盛り立てようって頑張ってるわけじゃん。だからさ、なんつーか、高2だろ? 中2じゃなくて高2だろ? な? やるってなったら、もうちょっとしっかりと前見て、目の前のことに取り組もうぜ。…おれは、その年齢よりもだいぶ幼く見えて仕方ない顔を見て、そう思った。


余談じゃないけど、おれの担当してたコートは、小学生中学年男子、中学生1年男子、シニア男性の3つが進行した。

8〜9歳、12〜13歳、40〜60代、と自分の年齢とは離れた男たちを何人も間近で見るわけだ。

そうすると、上手い人、動きが洗練されてる人について、一連の感想が浮かぶんだ。

「上手い子供は、精神的に早熟な感じ」
「上手いおっさんは、肉体と精神を若く保ってる感じ」

それを見ながら、一緒に係やった高2男子のことを考えると、なおさら「子供っぽいなー」って印象があった。


さらに結局そのコートで、有級一般・一般女子・シニア1・シニア2・一般男子の決勝をやることになったから、最後まで色んな人を見てた。ずっと立ちっぱなしだったので、疲れたけれど、なんか、年齢っつーもんは、本当に「実年齢」は関係無いもんだなーと実感出来て、中々に興味深い1日でした。

ちなみに、精神的に若いってのは「若作り」とか関係無いし、精神的に早熟ってのは「背伸びしてる」ってのもたぶんあんまり関係無いです。「実際にどの程度熟成されてるかどうか」ってことだけが、人から見た時の中身の印象を決めるんだと思う。

合理の涯

タイトルだけ浮かんだ。
っつーのも、今「氷の涯」って話読んでるだけだから、つまりただの語呂なのだけど。いや、でも丁度いい言葉かもしれない。

普通、合理的に物事考えるっつーと、「損得勘定」とか、「信念」だとか、まずは自分のベースにある土台の考え方を前提に、ロジックを組み立て、それを崩さないように結論を出すことを意味する。

たとえば損得を勘定して生きるのが、その人にとってはベースの考え方だとする。ぶっちゃけ、この「ベース」については個々別々の価値観そのもので、だから正しい、いや間違ってる、そういうことは誰にも言えない。それが「その人そのもの」だから。

んで、例として損得勘定ベースにした時に、「どこまでそれを適用するか」って話が出て来る。

たとえば、「命の賭かった局面で、自分の命優先するか、誰かの命助けるか」みたいな、そんくらい極端な方が分かり易い。本当に損得を大事にした時、どんな行動が得をして、あるいは損をするのだろうか。

まず、誰かの命を助ける選択を取って、自分が命を落とすとする。命を落とした自分は、果たして「損をする」だろうか。不思議な感じがしないだろうか。すぐに、損と得を勘定する主体は誰なんだ?って疑問が湧く。自分が死んだ瞬間、損も得も無くなっちまう。仮に、自分が助けられる人が自分より人望があれば、少なくとも現世的に残る人的には損得勘定が得サイドに傾く。

逆に、自分の命を優先する選択を取って、誰かが命を落としたとする。命を守り切れた自分は「得をする」だろうか。自分含めた人たちの悲しみや苦しみや、己の後悔や、それは「精神的に損する」のではないだろうか。何って、判断する主体としての自分は生きてるので、嫌でも「ベース」としての損得勘定を(多かれ少なかれ)用いずにはいられない。

でもこれは、普段おれたちがイメージする「損得勘定」とは真逆ではないだろうか。


損得勘定だけではない。
勧善懲悪でも、利便性の追究とコストパフォーマンスの話でも、情緒の最優先だろうが、ワーク・ライフ・バランスだろうが、およそ何でも構わないが、「命」っつーもんとぶち当てて照合すると、たいていの「ベース価値観」って、そのイメージが逆転するような気がする。まあ、ただの直観だけど。


勧善懲悪なら勧善懲悪で、善を貫き悪を否定することに命が賭かるなら、それは本当に揺らがないだろうか。

利便性や快楽の追究、コストパフォーマンスに鋭敏な感覚は、経済が回る上で社会的にとても重要な要素だ。仕事なんかしてると、程度の差はあれど必須的に求められる価値観。けれどそこに「命」が賭かる時、それだけでとても邪な障壁、あるいは重い枷になったりしないだろうか。

情緒を無視することに嫌悪を覚える人はたくさんいるだろう。けれど、たとえば先日の「新小岩駅の飛び込みの背景として推察されている、大田区のOL殺人とその悲劇が起きた経緯」は、情緒の過大さがその根本にあるのではないか。「そんなことが起きるくらいなら」、ドライで無機質で変わりばえのしない灰色な毎日が続く方がナンボかマシ…そもそも一時の激情で多大な迷惑が発生するじゃねえか…と考える人だってたくさんいるだろう。


この世は、浮世で、憂き世だという。
何が浮世なのか。
物事の変化の連続もそうだけど、「合理の前提となる、ベース価値観」が浮き沈みして定まらないことそのものだって、浮世の一要因なんじゃないか。

この世は、「何が本当に大切か」が決して確定しないように出来ている。じゃあ、上にキーワードのように挙げた「命」が最重要かって、決してそんなことはねえ。何しろ、今この瞬間にも生きてる生物は、一つ残らず死に絶えるように設計されてる。子孫は残せても、自分も子孫も、まず間違いなく、1つの例外も無く、100%死ぬ。それに、世界中で、過去から現在に至るまで、人の命なんて「いいように利用されてきた歴史」があったりして、たぶんそれは現在だって継続するところは局所的に継続してる。人の世に限らず食物連鎖のような仕組みだって、わりと命に対しては冷淡だ。

これだけ重要そうに見えて、なお「命は至上」ではないんだと思う。


ロジックはとても強力なツールだと思うんだけど、これだけ土台が不安定な中で、本当にこの世でロジックってちゃんと機能してんのかなって、たまに疑問に思うことがある。

だって、こんなにも様々な出来事や言説や景色や理由や目的や価値が、くるくるくるくる移り変わってるのに。

もしかしたら、ここは合理の涯なんじゃないかね。

ラスボスみたいなもんだろ

同僚が精神的にダメらしく、すでに休んで3週間超。直接話はしてないが、もうダメかもわからんねっつー状態らしい。業務負担人数が減り、補充予定は無く、有給取る余裕も無いかもしれない。おれ自身も今わりと鬱屈してる気がする。

その人が何抱えてんのかは知らない。
悩みっつーもんは原則としてその人自身が解決したり脱却するもので、他人に出来るのは良くてせいぜい手助け、悪ければすぐに藪蛇になっちまう。人の世の理として、他人の人生に土足で介入出来ないようになってる。

そうすると、おれがやらなければいけないことは、やっぱりおれ自身の問題だけで、「もっと一緒に仕事したかった」とか、「残念」とか、「これからしんどいな」とか、そういう気持ちに向き合い整理し、次々湧いてくる弱気をぶっ潰すのが第一で、次に仕事の内容と優先度を整理しておれ含む残り2人のメンバーの分担を最適化、あわよくば有給取ったり出来る状況にしなければいけない。実にめんどくさい…。


もしこれを一言で「今は耐える時」、「守りが重要」だね、とか言われたらたぶん噛み付く。

「攻め」だとか「守り」っつー「攻守」の概念はとても厄介なもんで、「状況を立て直す」ことが、すなわち「守り」とも言い切れない。つーか、今の状況にどう「上乗せ」するのか、そこんとこ目標設定しろみたいなのが会社っつー理不尽な怪物なのであって、そこに「攻め」とか「守り」とかって概念持ち込むとたぶん色々見誤る。おれは野球などの「ターン制のスポーツ」のルールが嫌いで、まああれはあくまでルールなんだけど、それってすげえ嘘臭いし胡散臭い。空手やってて思うのは、闘いは闘いでしかなくて、その中には「守りを兼ねた攻撃」もあれば、「相手を削り取り打ちのめす防御」だってある。攻めの時に守れないと、それは攻撃としても中途半端だし、攻めを考慮出来ない守りは先が読めてない。攻守っつーのは本質的には同じ一つのもののはずで、それはつまり「闘い」は「闘い」でしかなくて、そこに本来的に「攻守」なんて区分はないっつーことになる。

んで、軽く脱線しかけたけど、おれがぶち当たってる問題は別に守りでも攻めでも無くて、ただそこに「めんどくせえ問題があるのでどうにかしなければいけない」って話だ。いやさー、野球とかならさー、「終わり」があるじゃんさ。終わりまでに相手より点数稼ぎゃ勝ちってルールあるから、攻守を分けた方が分かり易いわけで。でも、たとえば会社っつーのは「半永久に持続する営為活動」が前提として組織されるし、たとえば人生っつーもんも「死ぬまで生きる」だけで、それ以外特別な初期設定としての目的なんて与えられちゃいない。だから、みんな「ゴールなんて無い」とか言うわけで。そんなめんどくせー、理不尽なことに耐え切れなくて、昔の人はたぶん「攻・守」なんて区分けを考えてみたんだと思う。

変化の連続だけがある中で、おれにせよ、ほぼ確実に辞めてしまう同僚にせよ、「自分の目の前の現実」と闘うだけなんだと思う。別におれの話に限らなくても、誰に置き換えてみても、今のめんどくせー状況から逃げ出しちまったとしても、家でゴロゴロしようが、大金手に入れようが、家族築こうが独りを満喫しようが、何でもいいけど、でも自分の人生からだけは何をどうやっても逃げ出せない。

んで思った。
「決して逃げられないモノ」と「いつも闘わなければならない」、これは一体なんなんだろうかと。

たまにやるRPGで喩えるとアレだ。
ラスボスなんだよ。


みんな、生まれた瞬間からラスボスの魔王みたいなおぞましいバケモノとずっと闘い続けてるようなもんだ。「逃げる」コマンド使おうが、スキルレベル上げまくろうが、決して逃げられない。「魔王からは逃げられない」どころか、逃げようとしたターン分、理不尽にラスボスの苛烈な攻撃に無防備に晒される。そしてこのラスボスは決して倒せない。どんなに攻撃したってダメージ与えたって、そいつは決して倒せない。ただ、自分が下手な反撃喰らってボコボコにされないためだけに、致命的なクリティカルヒット喰らって途中退場ならないためだけに、力と知恵を振り絞り、死ぬまで闘い続ける以外の選択肢が無い。ダメージ減らすために、手痛い状況を躱すために、自分の弱点を見つけて克服し、己の行動を制限する恐怖を発見しては正面切ってぶん殴り続け、ラスボス倒すには至らなくても、日々動き続けるための仲間を見つけ、それで、最期には「この理不尽と闘い抜いてやったんだ!」と死んでいく。


おれは、これが人の生だと思うのだよね。
これ以外の表現が見つからないのだよね。

大袈裟かね。
そんなでもないと思うのだけどね。

抽象と具象のあいだ

日常生活ってめんどくせえ。
めんどくせえ大きな理由の1つに、「分けて、それぞれに対処しなければいけない」というのがある。

幾つか例を挙げてみよう。
つうか幾らでも挙げられる。

・ゲームのハードがバラバラ

なぜトップにゲームの例出した。ってまあ、おれがゲーム好きなのと、「こちらが望んでる娯楽」ですら、対象が細分化されていて、DSのゲームやりたくてもPSPしか持ってないのが悲しいからなんだけど。テレビ見ないし、そも見たくないから捨てたけど、スーファミとかプレステは出来ない、なんて悲劇が起こる。悲しい。

ゲームを「ゲーム」として考えるのは簡単だけど、具体的には「〜のハードでプレイ可能な〜というコンテンツ」ってレベルでの接触しか、ユーザーには許されていない。人の思考回路ってのは現実の具象的な仕組みに比べればかなり抽象的に出来てる。「おれはゲームがしたいだけなんだよ!」って世界の中心とかで叫んでもどうにもならん。任天堂もソニーも鎬を削り会ってて自社のハード買ってもらおうって苛烈な経済競争っつーリアルの方が圧倒的に現実世界では優位だ。


・公共料金の支払い等がバラバラ

「光熱費」や「公共料金」「通信費」など抽象化して考えたりするけど、これもやっぱり当然ながら支払先は別々で、それぞれ電力会社や役所や通信事業会社にそれぞれ代金支払う。頭の中では「費用」って一括りに抽象化されちまうのに、仕組みとしては個々別々に動いてるから、「電気代余分に払いましたから水道代そこから持ってって!」なんてわけにはいかない。口座振替サービスやクレジットカードの1番便利な点は、「頭の中では抽象化されてしまう個々別々の支払いを一元化出来ること」にある。自動引き落としっつーよりむしろ、「幾つもの支払い先に悩まなくて済む」ことに尽きる。


・健康の維持

「健康は一生の宝」なんて言ったりするけど、抽象的な「健康」維持するのはとても大変だ。

歯磨き怠れば虫歯になり、歯医者に行かなければ行けない。ちょうど風邪引いてたからといって、歯医者で内科は診てくれない。

歯医者で注意され、日々の楽しみのスイーツを控えようと思えば、別なストレス解消の手段を見つけないといけない。ストレスフルな生活してれば、精神を病んでしまうかもしれない。

精神を病んでしまえば、正しい睡眠・食事・運動などが阻害され、今度は内科検診受けなくなるのかもしれない。精神科でも内科は診てくれず、内科行っても精神の失調原因なら根治出来ない。

「健康な心身」というたった1つの概念体現するのに気を付けるべきことは生活の中に無数にあって、何か1つが崩れれば他の領域へ転化・連鎖することも多い。お金に困っても精神・肉体の健康に影響あったりするから厄介だ。


・人間関係と、それに対する振る舞い方

万人に合わせた対人コミュニケーションってものは存在しない。気を遣うことは衝突の回数を少なくするし、裏表の無い態度は多くの場合信頼の構築に役立つ。けれど、一部の特徴的な人間やイレギュラーな状況に対して、気遣いや正直さは枷になることもしばしばある。

方法論ってだけではなくて、家族・友人・職場の仲間・ビジネスの取引関係・恋人・先輩後輩などの立場による振る舞いや、複数のメンバー内でのキャラのポジショ二ングなど、「自分から見た相手との関係性と振る舞い方」が問われる。とてもめんどくさい。鬱になる。

これがロボットならどうか。Aという人へ最適化された振る舞い方がインプットされ、BもCも、それぞれに対応した最適方法がプログラミングされていれば、そのロボットはどの人からも好感を持たれるに違いない。ただ、そのロボットは「アイデンティティ」を持ち得ない。その都度最適化された受け応えをすることで、「万人に都合良いロボット」っていう評価が成り立つだけで。でも人間はロボットではない。「自分」に拘るし、「自分」を根拠にして他者と関わる。

「自分の意志を曲げねばならない」
「自分は今これを伝えたい。言いたい」
「自分はその人が好き、あるいは嫌いなので、偏って贔屓する」
「自分が得をしたい。損をしたくない」
「自分が今こういう感情だから」

これがあらゆる円滑な人間関係について「抵抗」になってしまう。「自分の拘り、自分のやり方、自分の性格」にコミュニケーションを抽象化しようとするから、あらゆる状況や関係性への対応に綻びが出る。本当は、「Aと自分の関係性や作法」と「Bと自分の関係性や作法」は個々別々で、そこに発生する損得や感情の変化は、その時々のものなのに、「AとBを比較」してどちらがより自分に寄り添っているかなどと考えてしまう。本当はそもそも別問題なのに。



と、まあ、生活取り巻く環境には、「これ1つでどうにかならんかなぁ」と抽象的に考えてしまう物事で溢れていて、最終的にはその都度「個別に、具体的に」対応するしかないことに気付いたり嘆いたりしてる。

まあ、おれが面倒がるのがいけないのだけども。「イデア」とか「マテリア」だとか、遠回りでめんどくせえこと考えてた大昔の偉大な哲学者とかも、ただ生活が面倒だっただけなんじゃないかと、妄想したりするのだよ。

思索するだけの空気のように生きていたい、とか。そんな。