「感情に流される」ということ
年明けの仕事始めとか、すげえ憂鬱かなーと思ってたんだけど、思った以上に憂鬱で朝からしにたい。事務所移転のため、移転後の荷ほどきがあり、かつ通勤ルートも少し変わるので、いつもより30分近く早い電車に乗らねばならないことも、憂鬱に拍車をかけている。加えて、半月前の怪我も、カサブタは取れたものの、赤味は取れず、未だ見苦しい。ゆえにマスク。これも気が重い。
気が重いついでに、年末年始に考えた、そこそこ重い考えを、またいつものようにめんどくさい感じに書いていこうと思う。世間のメジャー層って、ライト&ブライトリーなコンテンツ求めてんだと思うけどね。おれが考えてる方向って世間一般の需要には逆行してるよなぁ。
ここ最近、立て続けに、複数の人から職場にまつわる愚痴を聞かされた。
それで、昔から愚痴を聞く頻度がやたらと高くて、人から見て自分はそういう人柄なんだろうか、ってことぐらいしか考えていなかったのだけど。その人が、根底では何を抱えてその愚痴を吐いてるんだろう。そこを突き詰めて考える、いい機会になった。
今回は、友人AとB、およびおれの母から、それぞれ完全に別個に話を聞いていたのだけど、どうやら、友人Bと母の愚痴に比べて、友人Aの話は聞いていてイライラして仕方が無い。これは一体なんなのだろうか。
友人Aの話は、職場の人間関係の話。
友人Bの話は、職場の大変な状況と、人間関係の話。
母の話は、職場の人間関係の話。
何度かリピートしつつ、時を変え場所を変え、複数回に渡りそれぞれの愚痴をヒアリングした。なんだこのノリ。フィールドワークかよ。まあ、いいや。
Bと母の話を、これは妙に安心して聞けるなあ、笑えるなあ、大変だけど笑えるなあ、笑えるけど切実で、お互い頑張ろうね、などと考えていたら、「もう、今の職場も長いからさー」なんて言葉が耳に飛び込んできて、Bも母も、あとおれも、それぞれの勤続年数が6~7年目に入っていて、「各々の職場で、一定の居場所があり、少なからず責任を負った立場」だということに気付いた。
ちなみに、友人Aは勤続1年未満だ。
勤続年数?
そこに、何かあるのか?
少し、ワクワクしてくる。
「そういうことだったのか!」という、驚きを伴う発見や気付きが訪れる、予感めいた感覚だ。
友人Aの言葉を聞く。
「俺、こんな目にあうとは思わなかった。あんな酷い職場があるかよ。あいつらみんなクズだよ」
友人Bの言葉を聞く。
「今週はマジで心折れるかと思った。またミスが発覚して残業だぜ。終電終わってタクシー待ちの中で、これが毎週続いたら完全にアウトだな。唯一俺の心のオアシスのあの子とも、なんか目論見が外れて席隣になれなかったわ」
母の言葉を聞く。
「今の所長、ちょっとおかしくてね。あんたと同い年くらいの若い子が目を付けられて、もう毎日怒鳴られてて、可哀想だから、ついつい味方しちゃうのよ。忙しいのに、融通利かないから、みんなが疎ましく思うのも分かるんだけどね」
何が違う?
何が、おれの感情に訴えかけるんだ?
友人2人も、母も、付き合いはすごく長い。
付き合いが長いから、性格を知ってる。その人の行動原理を知ってる。
おれは友人Bの言葉の裏に、「職場で起こる様々な不具合は、自分が出来る精一杯の努力を懸けて、最小限のダメージに抑える」という覚悟があることを知ってる。
母の言葉の裏に、「世の中にはどうしようもない人がたくさんいて、けれどそういう人たちも、置かれた家庭環境に左右されて生きてきたから、仕方が無い」という、出鱈目な深さの人間観察や理解と、諦めがあるのを知っている。
だけど、友人Aの言葉の裏にあるのは、本人の感情だけだ。言葉通りの感情だし、感情通りの言葉だから、分かりやすい。けれど、それだけだ。周りの人間に対しての愚痴であれば、本当に「あいつらみんなクズだ」と考えてるのが、手に取るように分かってしまう。
だって、そうだろう?
本当にクズみたいな人間なんて、そう滅多にいるもんじゃない。ちょっとしたことでクズみたいな評価が下されるなら、おれもお前もそこら中のみんながみんな、全てクズだよ、そういうことになる。
だけど、友人Aは、「自分が苦しい思いをした、そこに関わる人たち」に否定の感情を向ける。そこには、「その状況に対して、自分には責任は無い」、「あいつらが、あんな人間でなければ、この状況は起きなかった」、そういう想いがある。でも、そうだろうか?
当人にも十二分に責任があるから、多数の人が敵に回るのではないのか?
当人がそれを自覚しないから、クズではない人たちが、まともに味方してくれないんじゃないの?
当人が自分を見つめ直さないから、同じ職場に長く留まれないのではないのか?
新しい職場を求めて、より良い待遇や人間関係を求めて、いつまでそんなことを言い続けるんだろう。とても非生産的な友人Aの言動に、愚痴を聞かされる度に苛立ちが湧く。
マザー・テレサの言葉で、うろ覚えだけど次のような至言がある。
「言葉の使い方に気を付けなさい。貴方の言葉の使い方が、貴方の行動を作ります。行動に気を付けなさい。貴方の行動が、貴方の習慣を作ります。習慣に気を付けなさい。貴方の習慣が、貴方の性格を作ります。貴方の性格が、貴方の運命を決めていくのです」
至言だと思う。
けれど、件の友人Aは、ちょくちょくこの名言を凄い凄いと褒め称えているのだけど、にもかかわらず、「あいつら、みんなクズだ」だの、「咎められてやんの。ざまぁねぇよ」だの、そんなことばかりグチグチ言ってる。「言葉の使い方に気を付けなさい」…はどうなったんだろう。こいつはダメだな…と思うのは、おれが狭量なんだろうか?
恨みに思おうが、怒りを感じようが、その時その時に色々と感じるのは仕方ないと思う。けれど、それを根に持って、汚い言葉で罵るのは自分の人生に決してプラスにならないんじゃねえのか。そしてそんな心の在り方を、「感情に流される」と言うんじゃないのだろうか。
そんなことを思った次第。
これに関連して、また別の面白い気付きも幾つかあったのだけど、それはまた別に書こうと思う。