Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

全ての道はローマに通じてるらしいけどよ

今朝は、台風の影響で、駅までの道のりはとても遠かった。


まず、雨脚が弱まっていたのを確認した上でおれはチャリで駅へ向かった。今夜は空手の稽古もあり、帰宅時間を短縮したいのもあって、一挙両得のチャリを選んだ。


出だし順調だった。

ふーん

水溜り多いけど

チャリなら足も濡れないし

へえ

台風直撃なんつってもまあ?

こんなもんなの?

ふーん。みたいな。


つまり、まるっきり舐めてかかってた。
ところがどうだ!


角曲がると、そこには川があるんだよ。

いや、そこは道なんだよ…?
でも、そこは川なんだよ………なんだよ……なんなんだよコレ……これ川かよ…………道は……道とはなんだったのか……この川を渡る…チャリで………それは……なんか違う………。

混乱してハンドル切り損ねる。
風の圧力、および水の圧力、あとなんか深さ、それと重ねて波打つ水にタイヤを取られて、車体がよろける、思わず足を着く。いやしかしそこは道ではない。そこは川なのだ。あ、いや、普段は道だけど今は川なのであるからして何を言ってるんだ!

地面に足が着くのではなくて、水に浸かるのね。脛膝辺りまでね。着地じゃなくて着水ね。そこは川なのだからね。もうね、パニックっすよ。

慌てて陸へ逃げる。ひどく安心する。そうか。これが陸地というものの正体だったのか。爬虫類の気持ちになって陸を想い、おれはまたどうでもいいことを学んだ。


瞬時に濡れ切ったズボンと靴に、なにかが吹っ切れる。ダメだ舐めてた。おれは水を舐めていた。道路なのに軽く泳げる水量は脅威だ。これが自然なのか。ハッ、やるじゃねえの自然。駅までが今日のハイライトってことだな。


意を決してチャリを漕ぎ出す。
横行く車はホバークラフトさながらである。水が横に跳ねるのではなく、フロントガラスの正面垂直に跳ねるのね。なるほどね!これがホバークラフトね!また学ぶ。おれはどんどん賢くなっていく。


車が通ると波が来る。危ないだよ。
こちとらひとひらの舟なのだよ。
重機船には敵わねえのだよ。

歩道と車道の段差は"岸"。
落ちたら上がれない奈落なので気を付ける。
信号は罠。着水するしかなく被弾は免れない。
初戦敗退時にすでに右舷をやられてるゆえ、ゲージすでにレッドゾーンだ。横合いからやってきた重機艦に波動砲食らう。船長ッ!危ない!!ああっ!左舷が!もうだめだ。






っていう妄想を膨らませて駅へと向かいました。ぱんつ濡れなくて良かったです。中々スリリングな1日でしたなー。

家出たくない

雨風すげえ。
音が酷くて目が覚めた。

ずっと雨と風の音聴いてたいなぁ……家の中で。素敵だなぁ。雨曝しの音。

電車の運行状況どうなってんだ。
本数減らすとか出てたけど、横っ風に脆弱なJR線がこの暴風雨の中動くとは思えない。昼過ぎになって台風が抜けても、しばらく強風の影響で確実に運行は滞るだろう。

昨日の仕事帰りに後輩と話してたのだけど、こんな台風の日にみんな電車に乗って出勤するのって狂気の沙汰だと思う。電車がほとんど動かないってわかってる。でもみんな駅へ向かう。だからホームに人が溢れる。なけなしの運行電車がすし詰めになる。それがまた亀の歩みのようにノロノロ走る。遅れるし遅いから人が乗れずにホームはどんどん人が溢れる。この悪循環が必ず起きる。台風とか、法律とかで強制的に休みにしちまえよ。社畜って終わってるなぁ。こんな状況で出勤してまで、ずぶ濡れ覚悟で職場に辿り着いてまで、それほど重要なことって何があるんだろう。それが滞ると何か?人命失われるんか?普段は効率性だの合理性だの人に求めてくるのに、こんな基本的な部分からして非効率・不合理なんだから、そもそも企業活動とか営利の理念っつーもんが信じられない。ご都合主義極まりないよね。人命とか最優先して、社会インフラ圧迫しないように、無駄な消耗省けよマジで。「言われたからやってます」って思考停止と、「平日なので台風で電車動いてませんがなんとか出勤します」と、何が違うのかよくわからん。家の中で静かに雨の音や風の音聴いてた方が有意義だと思うのだけど。どうせなら線路や列車ごと吹き飛ばしちまえばいいのに。そうすりゃこんな無駄な愚考巡らせなくて済むのに。

台風直撃の凄まじい豪雨来た時にいつも思うのはこんなことばかりで、いっそのこと三日三晩続いて大洪水とか起きれば、鬱屈してる様々な物事が押し流されるんじゃないか。全て洗い流されてしまえよ、などと思う。たった1晩だけだなんて、実に儚くてつまらない。

あー、豪雨の中駅に向かいたくないなぁ。そのために朝から出勤の準備するのも乗り気になれんなぁ。凄まじい数の朝から疲れた顔の人達に満員電車で揉みくちゃにされたくないなぁ。無駄だなぁ。ほんっと無駄だよなぁ。テンションゼロ…っつーかマイナスに振り切れてる。戦う意味の無い戦いほど嫌になるもんは無い。頑張る意味が無い。災害時に頑なに張るとか愚かにもほどがある。だから事故とか起きるるんだと思う。今、災害が起きてるって冷静な認識のある人はどのくらいいるんだろう。駅員さんとか、構内アナウンスとかで、「無理に詰めないで、押さないでください!次の電車待ってください!」って言ってるのをたまに見かけるけれど、あれを真摯に受け止めて、実践に移せる人がどれだけいるというのだろう。あれが、本当は冷静な人のあるべき姿なのに。おれも含めて、みんな人形だね。慣習に則って動くしかない人や、それを下に強要するしかない無能とか、それに付き従うしかないおれ含めた凡人たちも、みんなしねばいいのにね。自然の猛威の前に、頭を垂れて、目を開けてさ、妄念振り払って現実直視して、真に効率性と合理性追究してみせろよ。この胸糞悪い画一化社会よ。


さっきから大雨・暴風・洪水・波浪警報鳴りっぱなしだ。


こんなん、休み一択だろ?
正常な感覚って何よ?

イベントとか要らないよ

物語なら、そこにイベントが必要だろう。
事件、あるいは急激な環境の変化が、登場人物の心理とリンクして、そこに謎解きやカタルシスが発生する。読み手はそれを楽しめばいい。

けれど、生憎と現実で起きるイベントはいつも面倒だ。なぜなら心理が変化する登場人物は自分自身で、謎解き(面倒ごとの解決)やカタルシスは自分に発生する。それを楽しむ自分を抱える、というのは、つまり「現に働きかけ、変化を体験する自分」と「体験を客観的に評価する、読み手としての自分」2人分が必要となり、それだけで容量重くなる。つまりめんどい。


というのも、そもそもは「自分に起こる出来事」について、おれにとって楽しむ要素は1つしかない。「内面を意図的に変化させて、続いてる現実にほんの少し変化を与えることが出来るかどうか」だ。だから、そもそも「非日常」に出くわした時に、内面や毎日の日常に変化があるのは当たり前で、しかもその日その時が過ぎれば、またいつもの日常に戻ってしまう。時間と体力と精神力のロスとしか思えないわけで。

そうすると、たいがいのイベントごとというのは、おれにとって非常に面倒な印象しか与えない。大会や祭事、集会や歓送迎会など、何かの催し事は本当に手間がかかる。そこに関わる個々人がどれだけのモノを得られるのかって考えると、やっぱり「面倒>経験値」となって、とても非効率な気がしてならない。

これは分かりにくいな…。
ドラクエで喩えると、イベントこなして中ボス1体倒すより、レベル上げしてる方がゲームしてる感あるというか。あるいは、先へ先へ進み、雑魚敵でもかなり苦戦するくらいの難易度で「普通の戦闘」楽しむ方が実りが大きいというか。や、よけいに分かりづらくなっちまった。


まあ、そんなこんなで、「節目節目とか大枠をみんなで決めて何か派手なことしようぜ!」みたいなノリが非常に嫌いだなーと思った。勝手にやってくれていいから、こちらを巻き込まないでくれと。

色んなことは、自分で得たり気付いたりするよ。
というよりも、「その段階」で自分で得たり気付けない人は、「その段階」で誰が何したって得たり気付いたり出来ないように、人間出来てるのだから。

逆に言えば、誰かが何かを得るために、特的のイベントごとなんて、たいがい不要だと、まあ思うんだよねぇ。


各々が課題を見つけて、各々解決して、そのそれぞれのスピードや風景は全く異なっていて、各々何かを祝福して、各々何かを追悼して、各々が自分の人生歩けばいいんじゃない?

イベントなんてフィクションの中だけで充分だと思った。

「とる」こと

iPhoneで音楽聴くためのアプリを、久しぶりに探してる。

歌詞が見られればいい。
あとは、アーティスト別、プレイリスト別に再生出来て、リピート・シャッフルかけられれば、それでいい。

ってことで久しぶりにApp Storeでミュージックカテゴリを彷徨ってた。

1つ、また1つと気になるアプリ見つけてはレビューを見る。なんか気になる。

「これはとるべき!」
「とった方がいいです」
「評判聞いてとりましたがすぐ削除しました」
「とっても損はしないですよ」


「とる」って何?
ダウンロードのことと気付くまで一瞬間が空いた。アプリダウンロードのことと思えば、大した抵抗は無いものの、小骨が喉に引っかかるような小さな違和感がある。

さらに、音楽プレーヤーのアプリを見ていると、まあ出てくる出てくる。「無料ダウンロード」って言葉の数々。それらも、アプリ自体には興味無いけれど、それを使う人たちのレビューが気になった。

「好きな曲がうまくとれないです」
「とれないので星1つ」
「とれる!とれる!もうこればっか使ってます!」


だから「とる」ってなんなんだよ……。ああダウンロードか…。おっちゃん若向けの言葉の感覚についていけんよ。

直訳として、「ダウンロード&インストール ≒ とる」であからさまな間違いは無いんだろうよ。でも、なんか違和感拭えない。

つまりさ、「ちょっと、そこにあるしょうゆとって」って感覚と同じなんだと思うわけです。「とる」は、買う・借りる・使う・利用する・所有する、そのどれともニュアンスが異なると思うわけです。アプリにせよ、楽曲にせよ。それは誰かが作ったもので、だから、自分ちにある、目の前にある生活用品をひょいと手に取るように、少なくともおれは「とる」感覚はなかなか持てないわけです。

「ダウンロードする」ってのは、まだ製作者とユーザーの間に境界線として機能する言葉だったんだなぁ。「とる」にはその境界線がほとんど無い気がする。


まあ別に偽善者ぶるつもりなんて毛頭無いけれど、若い人たちと日常の感覚にだいぶズレが出てんだなーって酷く実感が湧きました。

四季から考える、とてもめんどくさいこと

今週暑い。
今日はまあ夜はそこそこ涼しい。
けど朝から暑くて、昨日の夜に至ってはもう暑くて寝苦しかった。

一度はジャケットとか着たのに、また半袖に逆戻りだ。


台風も10年に一度の多発っぷりらしいけど、いい加減「〜年ぶりのなんちゃら気候」とか、「〜年に一度の異常気象」とか、だいぶ有り難みが薄れた感が否めない。というか分かりにくい。おれみたいなゲーム脳でも直感的に理解出来るように、なんかレベルとかで表してくれないものか。たとえば「天変地異」っつーのは気象庁的には何が当てはまって、それは一体何レベルなんだよ。ラスボスの使う、なんかアポカリプスとかカオスディザスター的な、そんな一撃即瀕死の鬼畜級の技みたいな気象とかがあるとして、今回の10月半ばでなお暑く、台風じゃんじゃか発生してる今現在はどのくらいなのか。話逸れた。


暑いねー、暑いですよね、いやほんと暑くよね、なんて同僚と話しながら、カレンダー見て思った。

秋はどこだよ。


おれの四季認識は、とりあえず夏暑くて冬寒い、春と秋は中間でなんか過ごしやすい。その程度だ。その程度だから、「春夏秋冬」で済んじまう。じゃあ今は一体なんなのか。おれの認識の仕方自体がそもそもおかしいっつーのは重々承知の上で、それでも「暦の上では秋」なんて、なんというかやっぱり納得いかない。

そもそも「4つに分けること」に拘る必要があるのだろうか。四字熟語きれいだけどさ。この世界は綺麗事じゃないんだよ!などと戯言が頭ん中に浮かぶ。慣例っちゃ慣例で、それ言っちまえばそれまでなんだけど。


そもそも「四季」っつー枠組みを取り外すと、どうなるんだろうか。今ってなんなのか。んで、それやっちまうと、そも西暦の表記もおかしい。1日は厳密に24.0時間ではないし、1年は厳密には365.0日ではない。帳尻合わせるために4年に一度閏年設定してる。設定。「設定」

ああ。そうだよ、これ全部「そういう設定」だったな。


設定なのだ。時間っつーのは、その辺にある物語の舞台背景や登場人物のキャラクターなどと同じく、「人為的に設定されていること」だった。やべえ忘れてた。

「人為的に設定された」時間の中で、それに付き従って、追われるような生活を繰り返すと、「これが設定された舞台の上の出来事」だということをそのうちサラッと忘れてしまう。最初から疑問に思わない人だって星の数ほどいるだろう。疑問に思ってもいいこと何一つないけどさ。

「自然と人間」って対比でよく物事考えるのだけど、たとえば太陽は別に「時間」に従ってない。朝、その辺で生ゴミ漁ってるカラスとか、芽吹いたり伸びたり咲いたり枯れたりしてる草花も、特段「時間」に従ってはいない。ただ輝くように燃えて、ただ生ゴミ漁って、ただ咲き誇って枯れ果てていくだけだ。水が乾いたかと思ったら空から降ってくる。時には固まって落ちてくる。延々と生き物みてーに大量の水が大地に向かって壁みたいに迫ってくる。採っても採ってもそのうち新しい実が生っている。

それが「人間」に対する「自然」っつー風景だったはずだ。


「人間」は「自然」を畏怖して、それを乗り越えるために「全知全能の神」を創造っつーか「設定」して、そこから帰納法的に「神の創造したこの完全な世界」の中に「完全な法則」見出そうとした。それが、学問の始まりだったはずだ。

星の動きには「完全な法則」があるから天文学が生まれた。星(star)と共に(con)あることが、「深く考える、熟考する(consider)」の原義だ。

バイオロジーの「ロジー」は「logos」で、「神様」のことで、「言葉と論理」のことだ。「はじめにロゴスありき」だ。ロゴスが光と闇を別けて、天と地と海を別けた。この世はロゴスに形作られた世界だ。


人間の生活するこのステージは、だから本当に「完全な世界」という妄想の中で「設定された舞台」でしかなくて、その中で剥き出しの生々しい自然に触れる機会はほとんど無い。探しても見つからない。つーかおれも記憶に無い。物心ついた頃には言葉が全部覆っちまってた。言葉も概念も、生み出されたツールでしかないはずで、その中で物事を見聞きし考えるっつーのは、結局「"人間"っていう壮大無比な妄想」の中で斜に構えて戯れ言弄くり回してるに過ぎない。


…やべえめんどくさい。
ほんとはそろそろ春夏秋冬の中にあと2つか3つくらいは季節追加しようぜとかどうでもいいこと書こうとしてたのに、めんどくせえこと書いちまった。あかん。

寝よう。

インドアの中身

考えてみたら、今週の仕事終わりの日程がひどい。

月曜→筋トレ
火曜→空手
水曜→空手
木曜→筋トレ
金曜→バレー(なんか誘われた)  New!!



…一体インドア系ひきこもりキャラとはなんだったのか。

とはいえ、身体を動かすのは好きだから仕方ないのだけど、この前ついに仕事の後輩に言われてしまった。

「つくねさん、だいぶアウトドアですよね」

違うんだ。そうじゃないんだ。
おれは真剣インドア派なんだ。
BBQとか野球とかフットサルとか、そういうのには興味無いんだ本当に。あとスポーツ観戦とか、ああいうのも微塵も興味無い。ネズミのテーマパークとかも、男1人でも行くってくらい好きな友人いるけど、おれは興味無い。

その一方で、確かに身体動かしに外には出てる。気持ちいい天候なら、川とか公園散歩するのも、まあ好きだ。アウトドアって言われるのは心外だけど、外に出るのは別にやぶさかではない。


だとすれば、何を以ておれは自分を「インドア」だと定義していたのか。それを考えてみよう。

まず、おれはコミュ障である。疑いようもない。昔はそんな事実を「惨めだなぁ」と、目を背けたくて色々誤魔化したり見栄を張ったりした。だがそんなもんは無駄である。コミュ障はコミュ障だと認めなければいけない。ここからスタートしなければいけない。

コミュ障だから、「大勢の人と同時に絡む」のが苦手である。つうか怖い。ここは色んな理由あるけど、大雑把に言えば「自信が無い」の一言だし、細かく言えば「"大勢多数"の中に自分を含めて考えられず、自分と"大勢"を対比してしまい、結果不安や焦燥に駆られて円滑なコミュニケーションが出来なくなる」だ。

さらに細かく見れば、大勢の中に自分を含めて考えられないのはマイノリティな自意識や感覚があり、だから「当たり前のように」人に内面を曝け出せない、安心出来ない、緊張する、もうだめだしにたい…となる。

マイノリティな自意識あるのは、たぶん根底に「自分の育った家庭環境が異常で、だからおれは日陰者」みたいな、いじけたガキみたいな責任転嫁の感情がある。最近でこそ、ようやく心の底の方にある昏い火の勢いを削いでこれたような気がするけれど、この火を全部消してしまうのは、それはそれでいけないような気もして、たまにもやもやしてしまう。こういうのって、やっぱり執着なんだろう。


で、まあ大勢に混じるのが著しく精神力の消耗激しいので、少数の人と緊密なコミュニケーション取るのを好むようになる。めんどくせえとは思うものの、そこは承認欲求とかいうクソみたいな感情がどうしても付いて回って、誰かと口をきいて話するのを完全に断つわけにはいかなくて、だからおれはクローズな関係性を求めることになる。


あとは、筋トレや空手の稽古なんかまでほんの二、三歩だ。何って内面観察の世界なんだよ。筋トレ然り、空手然り、散歩然り。気の合う、ごく少数の友人と緊密なコミュニケーション取るのも、究極のところ内面観察に集約される。本読むのもニコ動でROMってるのも、ゲームするのも音楽イヤホンで聴いてライブ行かないのも、だいたい1つの理由に収斂してく。「怖い」からだ。これが自分のネガティブさの大きな根源の1つだ。

だから、空手でもオープンネスが要求される試合やら大会には興味が無い。めんどくさいじゃん?

ってのを根底から曝け出せば「めんどくさいとか興味が無いとか、そういう"フリ"をして怖いのを誤魔化している」状態がそれなんだと思う。こうやって書き連ねていくと、おれは本っ当に情けない人間だなあと思う。

そういや中村一義の「キャノンボール」に、「僕は死ぬように生きていたくない」とか、そんな歌詞があったけど、あれ思い出した。「死ぬように」の内容は色々あるんだろうけど、あー、まあいいや。

それよりも、こんなだから、こんなどうしようもない人間だから、「複数人で協力するバレーボール」に触れるきっかけが出来たのは真剣に有難いことなんじゃないか。

ってことで明日は、新鮮な気持ちでバレー楽しんでみよう。



これってポジティブなんかなー。

人を心配すること

友人2人が、各々の職場で関わる仲間の、人生の心配をしている。この前は恋だか愛だかで、やっぱり別々に同時期に悩んでた。「お前ら似てるな」とか言ったら「あいつと一緒にすんな!」と声揃えて怒られそうで微笑ましい。性格も得意不得意も、全然似てないのだけど。



心配している人たちは年齢や境遇も違うんだけど、話を聞くと共通していることが1つだけあって、「現在の自分にまるで危機感持ってないこと」だ。それが危うく感じて仕方ないってことらしい。

周りの人たちはみんな言うわけだ。
お前のここが悪い、とか。
〜が出来ない、とか。
悔しくないのか、とか。
空気読め、とか。
怒られる/嫌がられることをするな、とか。
先のこと考えて行動しろ、とか。
分かりやすく説明しろ、とか。
…色々言うわけだ。


これに対して、言い訳が先に立つ人は、「言われる筋合いは無い」と必ず思っているし、具体的に気に入らない点を指摘する人は、「私が(気分含めて)損害蒙らなければいい」を多かれ少なかれ最優先して考えてる。だから、この2つは相容れない。決して化学変化を起こさない。

2人の友人の話を聞くと、1人は「仕事で使えるようになってもらわないとチームが潰れちまう」というシビアな動機で、もう1人は「合コンで初対面の女の子に一人前の男と見てもらえないその人が可哀想」って同情心からだ。シチュエーションと文脈はどこまでも違う。でも、どちらも「どこまでその人の人生に踏み込んでアドバイスすればいいものか…」と悩んでいた。

「その人に、その人自身の人生を歩む覚悟と危機感が足りてない」のが原因で、その人たちは友人たちの心配を買っている。

立場と将来への展望は友人よりも確実に有利なのに、「使えない」と左遷された若い人。仕事が出来なくて、そのくせ天性の運動センスや学歴はあり、だから友人は「才能にあぐらかいて、今まで躓かなかったであろう人」に、何を、どう伝えればいいんだろうと悩んでる。

立場や将来の可能性こそ友人と同じだけど、自分の人生に対してマジになれていない同年代の人。今の仕事はソツなくこなす器用さはあるのに、自分の将来に展望というか「こうありたい」という強い気持ちが無いために、たとえば女の子なんかからは「アホ。一緒に歩みたいと思えるはずがない」と一蹴されてしまう。

おれには2つの話は全く同じことを示しているように聞こえる。すなわち、「現在の自分を直視する覚悟が無く、危機感が足りてない」だ。こういう「個人的」な問題は、場所を変え形を変えて、見え方も変わり、だからたぶんその辺にゴロゴロ転がってる。おれ自身についてだって多分に当てはまるし、当の友人たちにだって、そういう要素の1つや2つ、無いわけではないんだろう。指差され問われれば、きっと黙り込んでしまうクリティカルな話だ。きっとこれは。


けれど、おれは友人たちの「人の人生心配する」姿に、なんかけっこう感動したりする。

彼らは各々、ベクトルこそまるで違えど、「今この瞬間に全力尽くす。考えられる全ての悪いことに対策を練って、あとはただ挑む」って気概だったり。「自分に何が出来るのか、この目で確かめるまでは自分を試してやる」という気概だったり。それで悩んでは1つまた1つ、なんかしら答えを出してく。

「危機感足りてない」人たちからすれば、「心配なんて余計なお世話」って煙たがられるのかもしれないけれど。

でも、お前らの真心は本物だ。おれは友人の質だけは誇っていい、と内心で思った。