Negative Finder

気づいたり、再確認したり、思いついたこと書くスペース。日記兼用。

心身一如

ここ数年で得た知見を惜しげも無く公開するおれはまず間違いなく善良かつ優良な人間である、と予め自分で自分を言祝いでおく。

 

心次第で身体の状態は変わり、その逆もまた真なり、ということになる。そして心と身体の、どちらの状態を操作するのが楽かと言えば、これは人によるだろう。

 

だけどこのネガティブな視点から人間を観察し続けた結果、どうやら「心」を先に操作する方が難しい人の方が多いように見える。「心」はすぐにネガティブな方向に囚われるから。

 

なれば、多くの人にとって、より有用なのは先に「身体」を操作してしまうことだと結論した。

 

 

太極拳で得た知見だが、まずは「股関節」を弛ませてみてほしい。股関節の緊張がどれだけ下半身を縛り、どれだけ上半身を不自由にしているか、それを実感できるまでは意識的に徹底的に股関節を弛ませてみてほしい。

 

「股関節を弛ませるってどういうこと?」

という疑問も想定する。

具体的には、腿の付け根(鼠蹊部)の脱力で、椅子に姿勢よく腰掛けている状態が「股関節が屈折して」いて、立った状態で腰を前に突き出せば「股関節が伸張して」いると捉えてほしい。(力が入らないよう)伸長させずに、あとは力を抜いて自然と浅く屈折する。

 

呼吸のコントロールなんて二の次だ。

息を吐く時に身体の緊張が解けるのは当たり前だけど、吸う時ですら股関節を弛ませられれば吐く時のリラクゼーション効果は一段と深いものになること請け合いである。

 

股関節を弛ませる効果を列挙する。

・膝が脱力する

・踵に正しく重心が乗る

・腰の重心が沈み、気づけば肚が据わるようになる

・気づけば背骨が正しいカーブを描く

・気づけば上体の力が抜けて肩の力も抜ける

・気づけば頭が真っ直ぐに首に乗る

・気づけば目線が前を向く

・気づけば呼吸が楽になる

・気づけば心が晴れやかに軽くなる

 

さあ、ぜひ立った状態で股関節を弛ませてみてほしい。

 

怒りや悲しみや苛立ちを感じたら3秒数えて感情が落ち着くのを待つ、みたいなセルフハックがあるけれど、3秒数えるついでに股関節を弛ませればいい。

 

宇宙で1番簡単なリラクゼーション法です。

 

やることが定まる

迷いというのは人を消耗させる。

なので自分がやることが定まると、それだけで安心する。消耗が止まり、不安が止まり、やすらぐだけでいいのだ。

 

そこに、自分がやることを決めることの価値の全てがある。やすらぐこと以外の価値は全て副次的なモノに過ぎない。

 

 

最近、自分が死ぬまで向かい続ける先がようやく見定まった。

それは目標や趣味や学習とかではなく、むしろ目標や趣味や学習は「死に至るまで向かい続ける先」を、生きる中で方向性として間違いなく持たせるために、都度微修正するための個別要素に過ぎない。

 

方向性が定まるということは、逆に言えば「何もする必要が無い」ということだ。なぜなら、「あなたは、死ぬまでにどこそこへ辿り着かなければいけない」というわけでもない。「目的を定めた」わけでなはく、あくまで「どの方向に進めばいい」と感覚したに過ぎないが、その方向に死ぬまで歩けばいいだけの話で、歩くうちに何が起きようが気を取られなければいい、という類の話なのだ。

 

「何々をしなければいけない」という縛りを解除すると、気が楽になるんだよ。

聴く

人との関わりは難しい。
とはいえ、「ここからここまで」と関係性の幅というか深さの範囲がある程度決まっていれば、そう苦ではない。職場の人間関係などがそれに当たる。

 

1月に異動した部署で、色々教わりながら仕事をこなしていたら、いつの間にか同じ課のメンバー以外でも仕事で絡む人たちと、けっこうタメ口で話せるようになっている。
数年前に、「お前の敬語は堅苦しいんだよ」と言ってくれた友人の言葉を思い出すと、あれが時間差で功を奏していると実感する。

 

だがまあ、そもそもは話し下手で、理解が早い方でもない。
むしろ聞きなれない言葉や用語が出るたびに、会話へ乗り遅れていくのを如実に実感する。

なので、相手が話していることを聞いて、理解できるまで聞いて、分からなければタイミング見て後からでも「あれってどういう意味です?」と聞いて、分かったと思ったつもりの自分が一番危険だと言い聞かせつつ何回か理解の薄皮を重ねるように何度も聞いて、それがいつの間にか深い理解とか関係に繋がるもんだと、この半年でだいぶ勉強になった。

そこまでいくと、何が問題で何が過不足なのか見えてくるから、そこから自分がどうしたいのか考えた時に「自分の意見」が持てるようになる。その意見を持った状態で誰かと会話をすると、「ああ、あれヤバいっすよね。どことどの部分をはや何とか整理しないと」とか、まあつまり「テキトーな一言」で話が噛み合うようになっていく。

「軽い言葉だけど会話の軸が噛み合う」ようになると、人は「あ、この人には気軽に話しかけられるぞ」と感じるようになるのか、わりと何かあると声を掛けてくれたり、分からないことを聞いてきたりするようになる。これがもしかすると「信頼を得る」ということなのではないかと最近思う。


まあ、なので、必要な「最初の一」は、「聞いて聞いて聞くこと」だということだ。
深く耳を傾けることを「聴く」というけれど、そういえば中国拳法に「聴勁」という力の表現がある。「勁」ってのは力の発生のことで、「力やエネルギー、相手の意図、現在の状態と状態の推移、重心の傾き、相手や自分自身の変化」を、皮膚を中心に感知することを指す。

耳鳴りだとか難聴だとかで、まあ耳はポンコツだけど、それでも「聴く」ことはできるものだと思った。

ここ数年…

なんか、とにかく最近疲れている。

 

走って息切れするわけではない。

考える力が衰えたと感じるわけでもない。

ただ言葉は浮かぶ。

 

浮かぶ言葉をゆっくり形にする時間が無い。

慌ただしいと言えばそれだけかもしれないけれど、そんな言葉ひとつには収まらなくて、もっと無数の何かが浮かぶ。

 

昨晩は小腹が減っていたけど、もう納豆1パックだけ食べて、あとは休息に充てるために少し熱めの風呂に浸かり、早々に寝た。23時に寝て、1時20分に起きてまた眠り、3時半にまた目が覚めた。本当に何も手が付かない、何も考えられない、動くのも無理、という状態なら、寝朝6時頃まで寝ているけど、この頃は途中で目が覚めることが多い。

 

ただ、呼吸はやたら深い。息をするのがすごく楽で、なんだかずっと息を吐いていられる感じだ。吐いた分だけ身体が沈んでいくような。寝る前の入浴に効果があったんだなと感じるのと同時に、夜途中で目が覚めてしまうのは、別に今始まったわけでなくて数年単位で続いてることだと久しぶりに気付いた。

 

楽で深い呼吸を布団の中で繰り返しながら考える。あれ、これ自体がそもそも病なのでは?と。それで自分の普段の行動を、いくつも振り返る。他の周りの人たちの行動と比較しながら、照らし合わせてみる。

 

…あんまり「ふつう」の範疇からは外れてないような気もするのだけど、これでスルーしてはいけない気がする。よく考えた方がいい。そもそも周りの人たちも「疲れて」ないか?

 

息が切れるわけでもない。

考えたり説明する力が衰えたわけでもない。

ただ、個々人が、日常生活や社会生活から何を要求されているのか。

 

人によって要求されているものは異なるだろう。だけど、その要求全般の様々なハードルは、徐々に上がってやしないだろうか。

 

細切れの時間で寝たり食べたり話したり楽しんだり、それは「悪かない」けれど、決して「自然」ではない。

 

自然じゃない、ということではないだろうか?

 

当たり前のように深くラクな呼吸をしたり、疑問も抱かずに夜から朝まで途切れずに寝る、というのが自然だとすれば、やはり途切れ途切れの睡眠は不自然だし、深くラクな呼吸に気付いて感動するのもまた不自然だ。

 

なんてことだろうか。

「自然でないこと」は、病の一形態なのではないか?

 

じゃあこれらの日常生活が迫ってくる要求全てを拒んで、色んなものを投げ捨てて、すぐさま自然と一体化出来るか?と言えば、それはとても難しい。人間関係や金や己の内に形成された価値観など、つまり「生活」が掛かっているからだ。

 

とりあえずどうすればいいか、と明けゆく朝の空を見ながら、久しぶりに日記を付けようかと思った。

見たくもない

やっぱり朝起きた瞬間に書くか、概要だけでもメモしておくか、そうでもしないと夢覚えてられない。起きて2時間も過ぎてしまえば忘却の彼方だね。夕方にもなっちまえばなおさら遠くてあやふやだ。夜ではもう想像に近い。移ろいやすい人の世哉。とりあえず書く。

……


おれは大学の友人たちと夜の街で騒いでいた。
飲み会の後なのか、これから飲みに行くのかはわからないけど、とにかく「遊ぶぞっ!」というエネルギーを感じさせる集団だった。まあ他人から見たら「他所でやれ」というようなテンションで、つまり「大学生の集団ってウゼー」というような雰囲気だ。

ウザいおれたちは、なんとなく徒歩で繁華街を練り歩いていたのだけど、うち1人はなぜかハーレーのような化け物バイクに乗っていた。あれはなんのために作られたマシンなんだろう。手軽さ、価格帯、スピードと効率性、どれをとっても不合理な気がする。そういう「実用性」から考えた時に不合理な選択肢を、人は「趣味」あるいは「ファッション」などと呼ぶんだろうな。大して美味しくもないのに高価で珍しい話題性のある食べ物を食べるとか、凍えるほど寒いのに生脚を曝け出したりだとか、その手間を省けばもっと役に立つように見えるモノに時間を充てるだとか。その化け物バイクも、おれにはファッションの塊に見えた。ファッションの塊を、これで中々どうして無駄に器用に操縦し、練り歩くおれたちに合わせて超スローで練り走らせていた。謎の技術だ。

ところが、そんなことを考えながら街角の1つを曲がった瞬間に、おれは仲間たちの姿を見失ってしまった。次の目的地へ置いていかれたのか、あるいは解散の合図を聞き取れずに見落としたのか、角を曲がるとおれは1人だった。

後ろを振り向いても、左右を見回しても、そこには誰もいない。賑やかを通り越して、少し鬱陶しいくらいの若者やおっさんの大声や呼び込みの声も影を潜めてしまった。人っ子1人いやしねえ。

さて、どうしようかと少し途方に暮れた。
仲間に連絡を取り合流を図るか、もしくはこのまま帰っちまおうか。携帯の充電を見ると残り1%である。スリープを解除し、連絡先を表示させた瞬間に充電が落ちてしまった。選択肢が無い。じゃあ帰ろうか。

おれはなんとなく駅とは反対方向の住宅街の方へ足を向けた。この有様では電車も動いてないだろう。繁華街から遠ざかり、十数分歩いたところではたと気付いた。おれは、どこへ帰ればいいんだろうか。よくよく見渡せば見知らぬ街だ。この街に、おれの帰る場所なんてあるわけがない。おれの足はどこへ向かっていたんだろう。

……カツン、と足音がした。
まだ誰か残っていたのか。そうして、はぐれてしまったおれを探しに来てくれたのか。そう期待して後ろを振り向く。誰もいない。また、カツンと音がする。カツン、カツン、カツン、カツン。

足音ではなかったのか。では一体これは、何の音なんだろう。カツン、カツン。ほんの少しおれの後ろから、カツン、カツン、と聞こえてくるこの音は、誰かの足音ではないのか。カツン、カツン、カツン、カツン。とりあえず、家に帰ろう。

闇雲に歩く。カツン、カツン。カツン、カツン。住宅街のはずなのに、妙に暗い。時間もそう遅い時間ではないはずだ。辺りはシンと静まり返って、それが妙に暗い。家屋の窓から漏れ出る光も無音の所為か、妙に薄暗い。カツン、カツン、という足音だけがとてもよく響く。耳に残るように気になってしまい、いつしかおれは、このカツン、カツン、という音から遠ざかるように少しずつ足早になり、気が付けばタッ、と駆け出していた。


……タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、ハァ、タッ、タッ、ハァ、ハァ、カツン、カツン、カツン、カツン、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、ハァ、ハァ、ハァ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン……………ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、息切れが、ハァ、ハァ、止まない、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、いつまで、ハァ、走れば、ハァ、ハァ、どこに、逃げ込めるんだろう。

逃げる? 待て。逃げているのか? それは違うんじゃないのか。なぜ、おれが逃げなければならない。おれは別に追われているわけじゃない。それが、どうして逃げなければいけないんだ。おれは、おれの行きたい場所へ、おれが好きなように行けばいいではないか! 唐突に理不尽な怒りに駆られて立ち止まる。カツン、カツン、カツン、カツン。この忌々しい足音の正体を暴いてやる。そう思いを定めて目一杯真後ろを振り向く。そこには何も無かった。足音の正体はおろか、人も、道も、家も、色も光も何も無かった。走って来た足跡は跡形も無くて、音を立てる何も無くて、カツン、とまた1つ耳元に響いておれはさらに振り返るけれどそこにも何も無くて、右も左も無くて、地に足を着いているのかすら覚束なくなってしまった。

……カツン、と音がして、もういっそのこと諦めようかなと顔を覆おうとして気付いた。顔も手も、頭も胴も足も、そこに無い。あんなに執着していた身体感覚なんて、どこにも無くて、おれは意識だけしか無かった。


この後は、なんか途中で意識が変わったのか、足音の正体が分からないままおれを自宅まで追い立てるショートホラーストーリーに変わってしまったので、一続きの夢はここで終わり。

友人の中で騒いでいる自分は、なんだろうか。
いつの間にか1人になっていた自分は、なんだろうか。
帰るべきか、仲間と合流すべきか、迷っている自分とはなんだったのだろうか。

よく分からないままに「帰る」と決めて歩き出した自分、途中で後ろから「誰か」の足音に気付き、それから「逃げよう」とする自分、理由も分からないのに「逃げている」ことに「怒りを感じ」、それを見てやろうと「決意」したにも拘らず、気付けば「自分を追い立てたモノの正体」も分からず、「立ち位置」も見失う……これは、なんなのか。

なんだ、人生の振り返りかなんかか。
どうせなら、夢だ幻だとケチくさいこと言わずに時間を丸ごと巻き戻してくれればいいのに。もっと幸せな夢が見てえよ。

経験のこと

何年、十何年ぶりの大雪により、土曜日は外に出られず、TSUTAYAで借りたCDを1日延滞してしまった。

……と、思いきや、大雪ゆえの1日延滞は免除してくれるらしい。好きだぜTSUTAYA


それで、今朝は積雪の中、駅へ向かっていて思ったことがある。

一面の雪景色、というか車道はかなりの割合で除雪されていて雪景色なんて風情でもないのだけど、歩道や細い私道は雪がたんまり残ってる。見える景色は、まあ確かに違うのだけど、それよりも落差が激しいのは、雪や凍結した路面で滑らないように迂回したり踏み込む場所に気を遣うことだった。

つまり、「同じ道で、見える景色が違うこと」よりも、「同じ道で、異なる歩き方をすること」の方が、ずっと新しい経験だなと気付いた。

よくよく考えてみると、仕事しようが、稽古しようが、本を読もうが散歩しようが、ゲームしようが音楽聴こうが、その大枠ってあんまり変わらない。どんな本読もうが、おれに見える視界は本の頁と活字の羅列で、何が大きく違うかって、頭の中に再生するストーリーと、それに伴う感情や思考の変化だけだ。仕事もまあ同じようなもんで、やってることの99%はいつもと同じで、あとは「異なるやり方」をしてみた時だけ、あるいはしなければいけなかった時だけ、それについて立ち止まって考える必要が出てくる。空手も同じで、稽古のメニューはいつも同じで、それよりも「自分が立てた課題を解決出来るか、そもそも課題を設定出来るのか」ってことの方が万倍重要で、それにより同じ稽古の内実が千変万化する。

経験ってのは、つまりそういう性質があるに違いない。「明日は今日とは違う日で、今日という日は二度とやって来ない」なんていうけど、これは「今日」をきちんと受け止めて、「明日」をきちんと意識して、そうして日々をきちんと経験して初めて有効な言葉なんだろう。

今日は、非常にストレスフルだった。
18時に電話取って、1時間、ずっと同じことを言葉を変え表現を変えて説明し続け、最終的に何の解決にもならない交渉が1件あった。目の前にサンドバッグあったら確実に速攻でぶっ叩きまくってる。履歴残しながら、己の話と相手の話を反芻し、どこに非があったのか考える。

「非がある」とか、「何が原因で誰が悪かったのか」だとか、そういうことは多分重要ではなくて、そんなことよりも同じことが起こり得ないシステムとか運用フローが必要だと本気で思った。「貴方が悪い」と論理的に説明し切れても、状況が改善しないからだ。先方も、当方も、「誰かの所為で何か問題が起きてしまうシステム」がどうにかならないと、どうにもならないんだと思う。

幸い、明日は休みなので、そんなこと微塵も考えずにダラっと過ごすつもりなのだけど、明後日からはこの続きに取り組まなければならない。「今日」と「明後日」が似たような終わり方をするなら、おれは今日も明後日も経験し切れなかったことになっちまう。「異なる歩き方や試し方」をしないと、それは「似たような一日」で終わってしまう。


まったく、どうしてくれようかね。



補足:
おれたちが「休日」ってものを求めてる、その本当の理由は、「最低コストで、(平日の)昨日と異なる経験をした気になれるから」だ。楽して、平日とまるで違う過ごし方になるから。そう錯覚するんだと思う。

「休日」と「休日」が、毎日毎日隣り合ってりゃ分かり易い。よほど能動的に動かないと、そう長く経たないうちに行き詰まる。

たぶん、そういうふうに出来てんだよ。

3つ、考えたこと

  • タイトルは……思い浮かばないな。 

    今、ふと、思い浮かんだのは「日記書こう」という漠然としたモノで、タバコ吸いながら(出だしは「稽古ってのは何なのだろうか。練習か。それとも訓練なのか。いけない、また空手の稽古にかこつけて文章書こうとしてしまった。 

    「文章」なんてキレイ事をほざいているけれど、その実は99%自己満足の塊だ。何って、特におれの書いたテキストを求めてる人なんて、ほとんどいないような気がするからだ。唯一、おれの書いたテキストが必要なのは、おれ自身で、いつだって(今思い付いたこれを、どこまで展開出来るんだろう)ってことしか考えていないからだ。」かな。よし、これで行こう) 

    ……なんてことを1分半くらい想像していると、タバコの灰を落としそうになっていた。 


    まあ書きたいことは3つくらいあった。 

    上の、思い付きの続きだけれど、おれの「考え」なんて、まあ「考え」とは呼べるようなシロモノではない。いつもそうで、「思い付き」くらいのレベルでしかなく、非常に浅はかだ。ただ、それを文章に落とし込むと、思い付きを何らかの「形」にすることになる。そうすると、嫌でも思い付きを展開しなければならず、思い付きの「その向こう側」を考えざるを得なくなる。 

    文章を書くくらいのことでないと「考え」を示せず、通常の、日常生活を送る上で、おれはいつも自分に甘くて、たいていのコミュニケーションを「思い付き」でやり過ごしている。だもんだから、「デリカシーが無い」とか、「考えたらず」だとか、そういう結果を招きやすい。非常に愚かなことだ。 

    とは言っても、じゃあ「文章に落とし込んだ、思い付きを展開したその考えは、何か役に立ってんの?」って聞かれたら、まあ役立たずだ。無益。害はあまり無いかも知れないけれど、あまりに意味が無い。99%は自己満足で、誰のためでもない、自分のためだけにキーを叩いてる。猥雑な表現すれば、まあオナニーみたいなもんだ。 

    これが1つ。 

     

    2月6日の木曜日、おれは仕事帰りに友人から「これから稽古に行く」とメッセージが来ているのを見て、じゃあおれも行こうかな、と思い立った。一度家に帰ると、たぶん時間が無くなってしまう。空手着やグローブなどを持たずに、そのまま直行してしまうことにした。 

    道場に着いて、おれはジーパンとTシャツ一枚でストレッチをして身体をほぐし、なんとか稽古に加わった。普通の組手練習をしているようだったので、グローブを持ってきていないことが本当に悔やまれた。まあ素手でもいけなくはない。 

    空手着ってのは、柔道着ほどではないけれどそれなりに生地が厚くて重みがある。その感覚に慣れてしまっているのか、それとも単に寒すぎて身体がほぐれていなかったからなのか、ジーパンとTシャツでは中々思うように動かせない。あれだ。衣服のまま泳ぐ訓練する、急泳法みたいなもんだ。いざって時に動けるように、リュック背負ったまま型の練習するとか、紙袋を片手に提げて組手するとか、そういうのって役に立つだろうかと、一瞬だけ思った。後で言われたのだけど、「いつもグローブ持っとくんだよ」って一言が、まあ正解なんだろうと思う。「備えあれば、憂いなし」って、本当はどういう意味なんだろうな。 

    んで、まあ組手以外には足腰の訓練とかした。片足で蹴りの構えになったまま、軸足の回転だけで道場の端から端までを往復、とかわりとキツめの練習。腰・股関節の回転数を上げてハイスピードで反復横跳び、とか。よく知らないけれど、途中からサッカーの練習法みたいなことしてた。 

    ミット打ち30秒連打やって拳を怪我してしまったのだけど、身体に力入りすぎてんだろうね。 
    練習する中で、当日のメニュー指示してたおっさんが、こんなことを言ってた。 

    「顎を引くとね、喉仏の下の、この柔らかい部分の奥にインナーマッスルがあるんだけど、それが鍛えられる。ここを鍛えると、組手や試合中の動きがブレずに真っ直ぐ突けるようになるんだよ」 

    おれはこれを軽く聞き流し、練習でへばっていた友人の体力不足についての話題に気を取られていた。どうやら「長寿遺伝子」みたいなものがあって、けれどこの遺伝子にはON/OFFのスイッチがあるらしい。長寿遺伝子をONにするには、「一定期間、食事を断つ」のが必要だとか。 

    へえ、断食とか絶食とか、効果あるんだなあ。効果のほどは絶大らしくて、とても気になってしまった。昔、「心の鬱屈」が原因で、食事を断った経験がある。けれど、あれは凄く後ろ向きで、そういう「健康法」とは全然別の体験だった。食べ物を食べることに大きな罪悪感を感じて苦しくなり、とてもじゃないけれどものを食べられなかった。あんな悲惨な精神状況ではなく、もっと前向きな気持ちでなら、断食とか絶食とか、試してみるのも面白いかもな。おれはそう思った。 

    その日は気付かなかったし、翌日の朝・日中・夜も全く意識しなかったのだけど、金曜の夜遅くに家に帰って来てから、少しだけ遡って振り返り、稽古仲間のおっさんの言葉を思い出した。 


    -顎を引くとね、喉仏の下の、この柔らかい部分の奥にインナーマッスルがあるんだけど、それが鍛えられる。ここを鍛えると、組手や試合中の動きがブレずに真っ直ぐ突けるようになるんだよ- 


    試しに、顎を引く。少し苦しい。 
    ゆっくり顎を引くのを、10回1セットで、2セットほど繰り返してみる。 
    そうすると、驚くほど姿勢が良くなることに気付いた。 
    重心は踵の上に乗り、肩から力が抜けて、胸がゆったり開く。 
    あれ、おれこの「インナーマッスル」が足りてなかったんじゃね? 

    土曜日も、食器洗ったり、カレー作ったりする合間にちょこちょこ顎を引く訓練を繰り返した。 
    これ凄い。これが凄いというより、おれの元々の姿勢が悪くて、直そう直そうとずっと試行錯誤してるにもかかわらず、「基本的な姿勢」に関して自分が経験的にあまりに無知過ぎることが酷い。あまりに酷いから、その落差ゆえに凄い効果覿面なのだろう。いや凄い。 

    姿勢ってものの、一番のアウトラインは「骨」なんだけど、じゃあその骨を正しい位置に配置する「筋肉」って、具体的には深層筋なんだよね。力こぶ作れたり、胸筋盛り上がってたりしても、幾らでも姿勢は歪んでく。股関節を緩ませたり、骨盤を正しく立てるには、肩甲骨の奥のインナーマッスルが機能しなくてはいけないらしいし。 

    んで、おれ思ったのね。 
    「木曜の稽古で、何が一番重要だったのか」って。 

    稽古ってのは何だろうか。 
    突きや蹴りの技術訓練なんだろうか。 
    基礎体力作りのことだろうか。 
    空手への理解を深めることだろうか。
    喉の奥のインナーマッスルの話じゃないんだけど、稽古仲間との休憩中のコミュニケーションの中に、こんなふうに自分が問題意識として抱えてることの答えが見つかったりする。 

    稽古ってのは、ぶっちゃけ何なんだろうか。 
    「自分が立てた問い」に、「答えを探し続けること」なんじゃないのだろうか。 
    そうだとすれば、空手どうこうってよりも、それは「自分の人生が」って話になるんじゃねえか。 

    身体ってのは、「変幻自在の教材」なんだと思う。 
    これを通して、これを使って、何を考えていくのか。どんな答えを探すのか。 
    こうやって何かを考えられるから、だから面白いんだと思う。 

    これが2つ目だ。 

     

    2月7日の金曜日は、バレーボールに誘われていたので、水・木と空手の稽古続いて疲れていたのだけど、久しぶりなので参加した。仕事終わりに体育館に行くと、どうやらメンバーが少ないらしい。女性3人とおれ1人、という窮状のようである。去年の10月、まだ暑さが残る時期に一度練習に参加して、昨日が二度目の参加だったため、メンバーの名前もうろ覚え、かつ初めて会う人もいたので、緊張する。 

    それでもなんとか身体をほぐし、3人の練習に加わる。 
    前回はさんざんだった。おれはアンダーレシーブは普通に出来るけれど、オーバーハンドのトス・レシーブや、アタックの技術がまるで分からない。前回はたくさんメンバーがいたので試合形式やって、全然ダメダメだったのだけど、幸い今回は人数が少なくて基礎練習みたいだ。 

    おかげで、オーバーハンドの時に気を付けること、アタックの時の腕のポジションなどを少しずつ教わることが出来た。パス回しも大分長く続き、前回の練習よりもかなり動けるようになった気がする。身体がほぐれるに従い、心もほぐれてくる。 

    練習終わりには飲み屋へ。 
    もう去年の怪我みたいな真似は繰り返すまいと、飲み方気をつけようと強く意識して店へ入る。 
    練習に参加していなかった人が何人か飲みだけ来たみたいで……というか、メンズはいないのか。女性3人加わって、実に賑やかしい。また初めて会う人が2人ほど増えて、おれは口数が少なくなった。緊張してしまうね、いけないね、どうにも。 

    その店に来るのも2度目なんだけど、本当に美味しい料理が出てくる。 
    美味い料理を食べ、酒が少し回ってくると、会話に溶け込む心の余裕が出てくる。 
    初対面の2人のうち1人は、練習に参加していた人と双子だと聞かされびっくりする。 
    片方が対面、片方が真横に座っていたので、だから気付かなかったのか。いや、にしても雰囲気がけっこう違う。おれが凄く驚くので、楽しそうに笑ってた。 

    おれは双子と聞いて、双子に聞きたかったことを尋ねてみることにした。 

    「子供の頃とか、互いに入れ替わろう!ってやらなかったんですか?」 

    「高校の時に、本気で悩んだそれ!」と、思いの外、食いつきがあった。 

    姉は普通のOLで、妹は看護師をしてるらしい。 
    あんまりアクセサリーやネイルも弄れないからねぇ、と口にしていた。 
    確かに、看護師の妹さんは、爪が短く切られている。仕事柄そこは清潔感が重要なのだろう。 
    そこでおれは、先日友人と話していた「女性の爪」に着目することにした。 

    その場には6人の女性がいたけど、爪を飾っていたのは1人だけで、「やっぱり手指爪はシンプルな方がいいよなぁ」なんて単純に考えてしまった矢先に、おれの考えは浅はかだなあと、痛感した。 

    女性メンバーの1人と、その日は他にいなかったメンズメンバーの1人が、どうやら結婚したらしい。途中からその話で持ち切りになってた。 

    「普段大人しめなんだから、ここぞとメイクとかしちゃいなよ」 
    「爪も凄く綺麗にしてさ!あー!いいなー!むしろ私がメイク担当したい!」 
    「そうなのかねー、いやー、まいっちゃうねー!」 
    「いやいや、人生で一度切りなんだから、あんたがお姫様なんだからね!?」 

    ……という感じの。 
    年齢は30代前半~後半くらいの集まりなんだけど、まあ、やっぱりガールズトークなんだね。 
    すげえ楽しそう。会話のキレの良さと面白いエピソードに、途中から自分もずっと笑ってた。 


    んでね。おれ思ったわけ。 
    先日、友人と飯食って、そこで「爪は飾らない方が魅力的」論聞いてた。友人の考えるところの、「少なくとも仕事では自重してもらいたい。かなり不快」論。実感としてはすげえ分かる。分かるし、おれもかなり賛成部分が大きい。おれも相当同意していた。……のだけど、このガールズトークに混じった後だと、やっぱりなんというか、その考えは「狭量」っつーか、「器が小せえ」っつーのか、そんなこと言ってたら一生モテないよね?というか。なんか反省した。こういう、幸せなコミュニケーションを否定しちゃ、やっぱダメだろ。


    ……というね。目の前の現実見てモノ言えよ、というかね。 
    考えるのも全く同じで、やっぱりきちんと具体的に想像して、それが出来ないなら経験積んで、経験も無いのならそれについて考えることはやっぱり浅ましいことで……と、これが3つ目なんだけど、これって上の1つ目のところに戻るんだよね。どれもおれが考えてることだから、そりゃリンクしたりループもするんだろうけどさ。 

    おれは思い付きで日々を過ごしているけれど、あまりにも考えなしで、本当はもっと考えなくてはいけなくて、そのためには楽な方向に行かずに、面倒だとは思うかもしれないけど具体的な経験を積まなくてはいけなくて、そうやって直接見て聞いた物事を持って、自分の思い付きを考えに展開していかないといけないよなあ。 


    そんなことを考えることの出来た、この木~土の3日間は、けっこう有意義だったよ。 

    大雪とか、テンションは上がったけど、わりとどうでもいいよ。 
    家のドア開かないから明日どうしようか心配だけどな!