心身一如
ここ数年で得た知見を惜しげも無く公開するおれはまず間違いなく善良かつ優良な人間である、と予め自分で自分を言祝いでおく。
心次第で身体の状態は変わり、その逆もまた真なり、ということになる。そして心と身体の、どちらの状態を操作するのが楽かと言えば、これは人によるだろう。
だけどこのネガティブな視点から人間を観察し続けた結果、どうやら「心」を先に操作する方が難しい人の方が多いように見える。「心」はすぐにネガティブな方向に囚われるから。
なれば、多くの人にとって、より有用なのは先に「身体」を操作してしまうことだと結論した。
太極拳で得た知見だが、まずは「股関節」を弛ませてみてほしい。股関節の緊張がどれだけ下半身を縛り、どれだけ上半身を不自由にしているか、それを実感できるまでは意識的に徹底的に股関節を弛ませてみてほしい。
「股関節を弛ませるってどういうこと?」
という疑問も想定する。
具体的には、腿の付け根(鼠蹊部)の脱力で、椅子に姿勢よく腰掛けている状態が「股関節が屈折して」いて、立った状態で腰を前に突き出せば「股関節が伸張して」いると捉えてほしい。(力が入らないよう)伸長させずに、あとは力を抜いて自然と浅く屈折する。
呼吸のコントロールなんて二の次だ。
息を吐く時に身体の緊張が解けるのは当たり前だけど、吸う時ですら股関節を弛ませられれば吐く時のリラクゼーション効果は一段と深いものになること請け合いである。
股関節を弛ませる効果を列挙する。
・膝が脱力する
・踵に正しく重心が乗る
・腰の重心が沈み、気づけば肚が据わるようになる
・気づけば背骨が正しいカーブを描く
・気づけば上体の力が抜けて肩の力も抜ける
・気づけば頭が真っ直ぐに首に乗る
・気づけば目線が前を向く
・気づけば呼吸が楽になる
・気づけば心が晴れやかに軽くなる
さあ、ぜひ立った状態で股関節を弛ませてみてほしい。
怒りや悲しみや苛立ちを感じたら3秒数えて感情が落ち着くのを待つ、みたいなセルフハックがあるけれど、3秒数えるついでに股関節を弛ませればいい。
宇宙で1番簡単なリラクゼーション法です。
やることが定まる
迷いというのは人を消耗させる。
なので自分がやることが定まると、それだけで安心する。消耗が止まり、不安が止まり、やすらぐだけでいいのだ。
そこに、自分がやることを決めることの価値の全てがある。やすらぐこと以外の価値は全て副次的なモノに過ぎない。
最近、自分が死ぬまで向かい続ける先がようやく見定まった。
それは目標や趣味や学習とかではなく、むしろ目標や趣味や学習は「死に至るまで向かい続ける先」を、生きる中で方向性として間違いなく持たせるために、都度微修正するための個別要素に過ぎない。
方向性が定まるということは、逆に言えば「何もする必要が無い」ということだ。なぜなら、「あなたは、死ぬまでにどこそこへ辿り着かなければいけない」というわけでもない。「目的を定めた」わけでなはく、あくまで「どの方向に進めばいい」と感覚したに過ぎないが、その方向に死ぬまで歩けばいいだけの話で、歩くうちに何が起きようが気を取られなければいい、という類の話なのだ。
「何々をしなければいけない」という縛りを解除すると、気が楽になるんだよ。
聴く
人との関わりは難しい。
とはいえ、「ここからここまで」と関係性の幅というか深さの範囲がある程度決まっていれば、そう苦ではない。職場の人間関係などがそれに当たる。
1月に異動した部署で、色々教わりながら仕事をこなしていたら、いつの間にか同じ課のメンバー以外でも仕事で絡む人たちと、けっこうタメ口で話せるようになっている。
数年前に、「お前の敬語は堅苦しいんだよ」と言ってくれた友人の言葉を思い出すと、あれが時間差で功を奏していると実感する。
だがまあ、そもそもは話し下手で、理解が早い方でもない。
むしろ聞きなれない言葉や用語が出るたびに、会話へ乗り遅れていくのを如実に実感する。
なので、相手が話していることを聞いて、理解できるまで聞いて、分からなければタイミング見て後からでも「あれってどういう意味です?」と聞いて、分かったと思ったつもりの自分が一番危険だと言い聞かせつつ何回か理解の薄皮を重ねるように何度も聞いて、それがいつの間にか深い理解とか関係に繋がるもんだと、この半年でだいぶ勉強になった。
そこまでいくと、何が問題で何が過不足なのか見えてくるから、そこから自分がどうしたいのか考えた時に「自分の意見」が持てるようになる。その意見を持った状態で誰かと会話をすると、「ああ、あれヤバいっすよね。どことどの部分をはや何とか整理しないと」とか、まあつまり「テキトーな一言」で話が噛み合うようになっていく。
「軽い言葉だけど会話の軸が噛み合う」ようになると、人は「あ、この人には気軽に話しかけられるぞ」と感じるようになるのか、わりと何かあると声を掛けてくれたり、分からないことを聞いてきたりするようになる。これがもしかすると「信頼を得る」ということなのではないかと最近思う。
まあ、なので、必要な「最初の一」は、「聞いて聞いて聞くこと」だということだ。
深く耳を傾けることを「聴く」というけれど、そういえば中国拳法に「聴勁」という力の表現がある。「勁」ってのは力の発生のことで、「力やエネルギー、相手の意図、現在の状態と状態の推移、重心の傾き、相手や自分自身の変化」を、皮膚を中心に感知することを指す。
耳鳴りだとか難聴だとかで、まあ耳はポンコツだけど、それでも「聴く」ことはできるものだと思った。
ここ数年…
なんか、とにかく最近疲れている。
走って息切れするわけではない。
考える力が衰えたと感じるわけでもない。
ただ言葉は浮かぶ。
浮かぶ言葉をゆっくり形にする時間が無い。
慌ただしいと言えばそれだけかもしれないけれど、そんな言葉ひとつには収まらなくて、もっと無数の何かが浮かぶ。
昨晩は小腹が減っていたけど、もう納豆1パックだけ食べて、あとは休息に充てるために少し熱めの風呂に浸かり、早々に寝た。23時に寝て、1時20分に起きてまた眠り、3時半にまた目が覚めた。本当に何も手が付かない、何も考えられない、動くのも無理、という状態なら、寝朝6時頃まで寝ているけど、この頃は途中で目が覚めることが多い。
ただ、呼吸はやたら深い。息をするのがすごく楽で、なんだかずっと息を吐いていられる感じだ。吐いた分だけ身体が沈んでいくような。寝る前の入浴に効果があったんだなと感じるのと同時に、夜途中で目が覚めてしまうのは、別に今始まったわけでなくて数年単位で続いてることだと久しぶりに気付いた。
楽で深い呼吸を布団の中で繰り返しながら考える。あれ、これ自体がそもそも病なのでは?と。それで自分の普段の行動を、いくつも振り返る。他の周りの人たちの行動と比較しながら、照らし合わせてみる。
…あんまり「ふつう」の範疇からは外れてないような気もするのだけど、これでスルーしてはいけない気がする。よく考えた方がいい。そもそも周りの人たちも「疲れて」ないか?
息が切れるわけでもない。
考えたり説明する力が衰えたわけでもない。
ただ、個々人が、日常生活や社会生活から何を要求されているのか。
人によって要求されているものは異なるだろう。だけど、その要求全般の様々なハードルは、徐々に上がってやしないだろうか。
細切れの時間で寝たり食べたり話したり楽しんだり、それは「悪かない」けれど、決して「自然」ではない。
自然じゃない、ということではないだろうか?
当たり前のように深くラクな呼吸をしたり、疑問も抱かずに夜から朝まで途切れずに寝る、というのが自然だとすれば、やはり途切れ途切れの睡眠は不自然だし、深くラクな呼吸に気付いて感動するのもまた不自然だ。
なんてことだろうか。
「自然でないこと」は、病の一形態なのではないか?
じゃあこれらの日常生活が迫ってくる要求全てを拒んで、色んなものを投げ捨てて、すぐさま自然と一体化出来るか?と言えば、それはとても難しい。人間関係や金や己の内に形成された価値観など、つまり「生活」が掛かっているからだ。
とりあえずどうすればいいか、と明けゆく朝の空を見ながら、久しぶりに日記を付けようかと思った。
見たくもない
……
おれは大学の友人たちと夜の街で騒いでいた。
飲み会の後なのか、これから飲みに行くのかはわからないけど、とにかく「遊ぶぞっ!」というエネルギーを感じさせる集団だった。まあ他人から見たら「他所でやれ」というようなテンションで、つまり「大学生の集団ってウゼー」というような雰囲気だ。
ウザいおれたちは、なんとなく徒歩で繁華街を練り歩いていたのだけど、うち1人はなぜかハーレーのような化け物バイクに乗っていた。あれはなんのために作られたマシンなんだろう。手軽さ、価格帯、スピードと効率性、どれをとっても不合理な気がする。そういう「実用性」から考えた時に不合理な選択肢を、人は「趣味」あるいは「ファッション」などと呼ぶんだろうな。大して美味しくもないのに高価で珍しい話題性のある食べ物を食べるとか、凍えるほど寒いのに生脚を曝け出したりだとか、その手間を省けばもっと役に立つように見えるモノに時間を充てるだとか。その化け物バイクも、おれにはファッションの塊に見えた。ファッションの塊を、これで中々どうして無駄に器用に操縦し、練り歩くおれたちに合わせて超スローで練り走らせていた。謎の技術だ。
ところが、そんなことを考えながら街角の1つを曲がった瞬間に、おれは仲間たちの姿を見失ってしまった。次の目的地へ置いていかれたのか、あるいは解散の合図を聞き取れずに見落としたのか、角を曲がるとおれは1人だった。
後ろを振り向いても、左右を見回しても、そこには誰もいない。賑やかを通り越して、少し鬱陶しいくらいの若者やおっさんの大声や呼び込みの声も影を潜めてしまった。人っ子1人いやしねえ。
さて、どうしようかと少し途方に暮れた。
仲間に連絡を取り合流を図るか、もしくはこのまま帰っちまおうか。携帯の充電を見ると残り1%である。スリープを解除し、連絡先を表示させた瞬間に充電が落ちてしまった。選択肢が無い。じゃあ帰ろうか。
おれはなんとなく駅とは反対方向の住宅街の方へ足を向けた。この有様では電車も動いてないだろう。繁華街から遠ざかり、十数分歩いたところではたと気付いた。おれは、どこへ帰ればいいんだろうか。よくよく見渡せば見知らぬ街だ。この街に、おれの帰る場所なんてあるわけがない。おれの足はどこへ向かっていたんだろう。
……カツン、と足音がした。
まだ誰か残っていたのか。そうして、はぐれてしまったおれを探しに来てくれたのか。そう期待して後ろを振り向く。誰もいない。また、カツンと音がする。カツン、カツン、カツン、カツン。
足音ではなかったのか。では一体これは、何の音なんだろう。カツン、カツン。ほんの少しおれの後ろから、カツン、カツン、と聞こえてくるこの音は、誰かの足音ではないのか。カツン、カツン、カツン、カツン。とりあえず、家に帰ろう。
闇雲に歩く。カツン、カツン。カツン、カツン。住宅街のはずなのに、妙に暗い。時間もそう遅い時間ではないはずだ。辺りはシンと静まり返って、それが妙に暗い。家屋の窓から漏れ出る光も無音の所為か、妙に薄暗い。カツン、カツン、という足音だけがとてもよく響く。耳に残るように気になってしまい、いつしかおれは、このカツン、カツン、という音から遠ざかるように少しずつ足早になり、気が付けばタッ、と駆け出していた。
……タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、ハァ、タッ、タッ、ハァ、ハァ、カツン、カツン、カツン、カツン、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、ハァ、ハァ、ハァ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、タッ、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン、カツン……………ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、息切れが、ハァ、ハァ、止まない、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、いつまで、ハァ、走れば、ハァ、ハァ、どこに、逃げ込めるんだろう。
逃げる? 待て。逃げているのか? それは違うんじゃないのか。なぜ、おれが逃げなければならない。おれは別に追われているわけじゃない。それが、どうして逃げなければいけないんだ。おれは、おれの行きたい場所へ、おれが好きなように行けばいいではないか! 唐突に理不尽な怒りに駆られて立ち止まる。カツン、カツン、カツン、カツン。この忌々しい足音の正体を暴いてやる。そう思いを定めて目一杯真後ろを振り向く。そこには何も無かった。足音の正体はおろか、人も、道も、家も、色も光も何も無かった。走って来た足跡は跡形も無くて、音を立てる何も無くて、カツン、とまた1つ耳元に響いておれはさらに振り返るけれどそこにも何も無くて、右も左も無くて、地に足を着いているのかすら覚束なくなってしまった。
……カツン、と音がして、もういっそのこと諦めようかなと顔を覆おうとして気付いた。顔も手も、頭も胴も足も、そこに無い。あんなに執着していた身体感覚なんて、どこにも無くて、おれは意識だけしか無かった。
この後は、なんか途中で意識が変わったのか、足音の正体が分からないままおれを自宅まで追い立てるショートホラーストーリーに変わってしまったので、一続きの夢はここで終わり。
友人の中で騒いでいる自分は、なんだろうか。
いつの間にか1人になっていた自分は、なんだろうか。
帰るべきか、仲間と合流すべきか、迷っている自分とはなんだったのだろうか。
よく分からないままに「帰る」と決めて歩き出した自分、途中で後ろから「誰か」の足音に気付き、それから「逃げよう」とする自分、理由も分からないのに「逃げている」ことに「怒りを感じ」、それを見てやろうと「決意」したにも拘らず、気付けば「自分を追い立てたモノの正体」も分からず、「立ち位置」も見失う……これは、なんなのか。
なんだ、人生の振り返りかなんかか。
どうせなら、夢だ幻だとケチくさいこと言わずに時間を丸ごと巻き戻してくれればいいのに。もっと幸せな夢が見てえよ。